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紺野登の構想力日記#04

構想力は「ゼロ」を生み出す力(その4)


◇ コロナ禍と構想力

構想というのは、現実には触ることができない概念や記号システムである。
それは想像の世界にはあっても、いまこの現実にはまだ「無」であり「空」である。しかもそれは未来という「いまだない」時間に関わっている。

構想力は、無から有を生む力ではなく、「無」を生みだす力だ。ゼロから1を生むのではなく、まさに「ゼロ」を生み出す力こそ構想力なのだ。そして「無」や「ゼロ」や「空」が見出されると、それに向かって、その不完全性を満たそうとしてイノベーションが起きる。ということを、これまで3回にわたって書いてきた。

ただ、ここまで書いてきてふと思う。
「無」も「空」も魅惑的でありながら、それらに「虚」という字がくっついた「虚無」や「空虚」を想像すると、それらは怖い。そんなものは見たくもないし、触れたくもないと思う。
構想力の起動をおしとどめるのは、この恐怖なのかもしれない。
人間は多くの場合、「不完全性」を忌み嫌うのだ。

「自然は不完全だ」ととらえたテレンス・ディーコンの勇敢さを思う。(構想力日記#02 で詳しく書いてます)

近代科学は目的や意味といった不完全な概念を排除した。それはアリストテレスの支配した中世からの脱却で無理からぬことだったけれど、そのために世界や環境は、目的のない機械に堕してしまった。だから環境や人間が回復するには、ゼロに立ち返り、不完全性を受け入れる必要がある。

そして今、新型コロナウィルスがぼくたちの生活に大きな影響を与えている。ぼくらが慣習にしたがって、なんの疑問も持たずに惰性で営んできた日常生活は、0.1μm(10億分の1メートル)という超超微細な粒子によって、いとも簡単にストップさせられた。
「慣性の法則」というのは、なにも物体にだけ適用される法則ではない。ぼくたち人間だって、慣性の法則によって、等速運動さながらに、日々同じように同じことを繰り返しながら日常生活を送っている。
そこに、コロナがいきなり、外部から強烈な作用を及ぼし、あたりまえの日常に“裂け目”を空けたのである。

いわばコロナは、意図せざる「エポケー」だ。
それは近代からつづく時代を立ち止まらせる。

◇ あたりまえの日常に空いた“裂け目”から多様な世界を見る

現象学者のフッサールが掲げた「エポケー」の概念とは、ぼくたちが通常抱いている意識の流れを、意識的に一旦「判断停止」することだ。そうすることで、バイアスを取り払って、そうしてもなお、みずからの内面にただただ立ち現れてくる現象を、直接観じることだ。つまり、ゼロに立ち返ること、である。それはフッサールが、科学の基礎づけを疑い、見直そうとした意図でもあった。

いま、このときこそ、構想を抱き描くべき瞬間ではないか!

でも、決してあわててはいけない。
偶然ポッカリ空いたゼロや知の真空に、これまですでにあったアイデアや思考を安易に流し込んでしまえば、エポケーの意味はないだろう。

意図せずしてエポケーの状態にいたることができたのだから、この機をむだにしてはならない。過去に設けられた制度やルールを一旦「カッコに入れて(=エポケー)」、それらがまだ実行されていない「ゼロ」の状態を仮定してみよう。そんな仮定をしてみることは、慣性の法則で日々を過ごしているときには、きわめて難しいことだったけれど、いまならむしろ容易にできてしまう。コロナの感染予防のための「自粛」という大義のもとで、これまであたりまえにやってきた多くのことを「一旦やめる」ことを推奨されているのだから。
変わりばえのしない日常に空いた“裂け目”は、最初は小さな裂け目だったかもしれないが、しだいに広がって、そこからいままで見たこともなかった視野がひらけていくはずだ。日常が壊される不安にさいなまれながらも、いま多くの人が、意図せざるエポケーによって、これまでの視野狭窄からの解放を実感しているのではないだろうか。

そこで本当に必要なのは、オルタナティブ(既存・主流のものにかわる何か新しいもの)なアイデア、プルーラリティ(多元性)への転換だと、ぼくは思うのだ。

「ゼロから1へ」と言うときにぼくたちの頭の中に浮かぶのは、目指すその「1」なるものだ。しかし、それは容易に現れない。(そんな創造ができるのは古代エジプトの最高神、アトムぐらいのものだ)

「ゼロから1へ」のスローガンのもとにあるのは、おそらく単一の方向性を持った意志作用(志向性)ではないだろうか。つまりシンギュラリティーだ。けれども、ぼくらがゼロに立ち返ったときに見えるのは、多くのもの、つまりプルーラリティーではないか。

◇ オードリー・タン氏の「ゼロ」思想

野中郁次郎先生やぼくが発起人となって、2012年より「トポス会議」という知識生態系の場を、年一回開催している。
2年前の2018年に開催された第12回トポス会議の大テーマが「オルタナティブ創造社会への挑戦」だった。
そこに、いま世界中で話題の人となっている台湾のデジタル担当大臣、カリスマ・プログラマーのオードリー・タン氏が登壇している。

最近は世界中のメディアで引っ張りだこのタン氏だが、日本のメディアでこんなに取り上げるずっと前に、「トポス会議」にお招きしていたのだ。「オルタナティヴな世界をいかに構想するか」というテーマで話をうかがった。
いまやタン氏といえば、台湾のマスクアプリの方が有名になったが、その背景にあるのは草の根のデータ・コラボラティヴ(データ協業)だ。

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タン氏は2014年の若者による議会占拠を通じて台湾政府と社会を大きく変えるのに貢献してきた。彼女らのやったことは「政府をフォーク」すること。つまり別バージョンをつくるということだ。
その呼びかけに呼応して、マスクアプリを生むことになったシビックテックコミュニティの「g0v」(gov-zero)のCOVID-19チャンネルには、多くのプログラマが集った。

どこかのインタビューで彼女が、半分冗談のように自分はタオイスト(老子)だと言っているのを読んだ。要は、仏教の「無」「空」とは異なるものの、やはり「無」(不在)を意識していると言っていいと思う。
これはオープンソースのプログラマーとしてある意味当然だが、「ガバメント0」では、パブリックでオープンな対話の場、そこでの弁証法的な議論の展開による創造で社会を変える。こんなことを考えているのであろう。

コミュニティの名称「g0v」の真ん中にある「ゼロ」も意味深だ。
構想力とは「ゼロ」を生み出す力、というこの日記のタイトルテーマを体現する、まさに地で行くかのような「g0v:零時政府」の、ゼロから政府を考え直すという市民の力を、いま世界中が注視しているのである。タン氏はそのゼロの地点から多様な世界を見わたしながら、多様な人たち、多様な組織、多様な価値観をつなぐという仕事をしている。

ごく最近の雑誌のインタビュー記事では、タン氏のこんな発言が紹介されていた。

「There is a crack in everything and that’s how the light gets in.( すべての物にひびがある。そして、そこから光が入る)」。世界は完璧ではありません。私たちの行動が、生態系を壊すこともある。自然界、人間界のシステムの構造的な問題に、一緒に取り組むことができる。それが、私たちがここにいる理由です。欠陥は、あなたが貢献するための招待状です。(『フォーブス ジャパン』8月9月合併号 21p)

「世界は完璧ではない」から創造するという表現が、以前の日記でも紹介したテレンス・ディーコンの「世界(自然)が不完全であるからこそ、生物や人間は進化する」という説にピタリと合致していて、ハッとさせられるものがあった。

◇ 青山常運歩(山は常に歩いている)

エポケーによって現れるのは、流動的で不完全な世界だ。
エポケーによって、世界を構成していた名前や概念が失われたり、「溶けたり」する。

第三回でも触れた、日本に禅の思想を確立した道元の『正法眼蔵』( しょうぼうげんぞう)。そのなかの一巻である「山水経」巻で、道元は「青山常運歩(山は常に歩いている)」と、世界のありようを語っている。
山が歩くものか、と思うかもしれない。われわれは通常、山は不動だと思っている。しかし本当は、山は造山活動や地球の自転で動いている。山が動いているのを、人間の目が認識できていないだけである。
そもそも「山」などという言葉も、人間がつけた概念の名前にしか過ぎない。なのにぼくらはその「山」という語のもとに、どの山に対しても固定的なイメージを持ってしまっている。道元は、この固定化した認識を破って、先入観から自由になることを説いているのだ。

ぼくが道元の教えを読むときの手引きの一つである『道元-自己・時間・世界はどのように成立するのか 』(頼住光子著、2005)には、こんな解説がある。

 人は、日常においてさまざまな事物と出会い、関係を持つのであるが、そのような出来事のそもそもの基盤となっている、世界のありようそのものに目を向けることは、まずない。人は、世界に対してある一定の見方を、すでに自覚するともなく持っていて、この見方に基づいてさまざまな物事を判断し処理している。
 しかし、道元は、日常生活を送る上での前提となっているこのような無自覚のままのぼんやりとした信憑に亀裂を走らせようとする。それによって、存在の真のすがたへと目を向けさせようとするのである。このような意図をもって道元によって発せられるのが、たとえば、『青山常運歩』という言葉なのである。(同書pp.33-34)

ここで「青山」とは存在を意味する。すなわちあらゆる存在は、固定などしていないのだ。「世界のありようそのものに目を向けること」から、新しい構想がわいてくる。

こういった時空間に、いまこそ構想力を羽ばたかせたいものだ。

紺野 登 :Noboru Konno
多摩大学大学院(経営情報学研究科)教授。エコシスラボ代表、慶應義塾大学大学院SDM研究科特別招聘教授、博士(学術)。一般社団法人Japan Innovation Network(JIN) Chairperson、一般社団法人Futurte Center Alliance Japan(FCAJ)代表理事。デザイン経営、知識創造経営、目的工学、イノベーション経営などのコンセプトを広める。著書に『構想力の方法論』(日経BP、18年)、『イノベーターになる』(日本経済新聞出版社、18年)、『イノベーション全書』(東洋経済新報社、20年)他、野中郁次郎氏との共著に『知識創造経営のプリンシプル』(東洋経済新報社、12年) などがある。
Edited by:青の時 Blue Moment Publishing





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