本当にテクニックだけだったのか?そこにマインドは無かったのか?
前回、「テクニックからマインドが育つという考え方」をまとめました。その後に改めて考え直したことがあるので、その点について追記します。
自問自答の始まり
前回の記事を書いてから「本当に自分はテクニックだけを求めているのだろうか?」と自問自答をしてみました。
確かに私は「つかみ・フォーク曲げ・メンタリズム・心理効果」など、手っ取り早く効果が出るものを選んで学んできました。胸を張って言うことではないかもしれませんが、これは間違いないです(笑)
でも、「すぐに効果が出るテクニックなら何でも欲しいか?」というと、そうではありません。あくまでも教育やコミュニケーションのための技術が対象になっていることに気づきました。
では、なぜ私は教育やコミュニケーションのテクニックを欲しているのでしょうか?
私の心にあったもの
私は、自分のマインドを自覚していなければ言語化もしてきませんでした。でも、改めて振り返ると「私も師匠みたいな教育をしてみたい!フォーク曲げやメンタリズムをマスターすれば、私の研修に活かせそうだ!自分もオンリーワンになれそうだ」という動機は持っていたのです。
もしかすると、私がテクニックを欲していたのは、おぼろげながらも「こんな講師になりたい!」「こんな教育を実現したい」という想い(=マインド)を持っていたからなのかもしれませんね。
また行動を起こすためでなく、行動を継続するためにも動機・想い・マインドが必要になるでしょう。
たとえば、フォーク曲げを学べば誰でも確実に曲げられるようになります。でも、人前でパフォーマンスとして見せられるレベルまで練習する人はごくわずか…。メンタリズムもコミュニケーションも同様で、練習すれば練習するほど、実践すれば実践するほど磨かれていくのですが継続が難しいのです。
繰り返しになりますが、私がフォーク曲げやメンタリズム、コミュニケーションなどを学んできた理由は「教育における自分自身の影響力を高め、受講生の学びを創れる講師になること」に対して効果的だと思ったからです。
つまり、自分の目的を果たすための手段として適切だと確信していたからこそ継続できたのでしょう。
そもそもマインドとは何か?
何となく「マインド=心・意識・精神」などに置き換えて、分かった気になっているだけ私がいます。でも、ここを定義せずに「マインドよりもテクニックを学びたい」というのはダメでしたね。
改めてマインドについて思考してみた結果、「マインドとは意向である」と考えるようになりました。意向とは「自分の意識や心が向いている先」のことであり「自分がどうしたいか」です。よく言われる「在り方」も含まれるでしょう。
そんなマインドの源泉となるものには色々なものがあります。「○○したい」という夢や目標かもしれませんし、興味かもしれません。不安や警戒心から「○○をしなくては…」という意向が生まれて来る可能性もあります。
いずれにしても「自分の意識や心が向かう先」ではあると思っています。この意向は知識や思考だけで決まるものではありませんし、感情だけで決まるものでもありません。自分が持っている知識や思考と、感情とがバランスよくミックスされた上で構築されるものだと思っています。
マインドが先か、テクニックが先か
「マインドがあってのテクニック」という考え方には共感します。ただ、行動を変えることでマインドが形成されていくこともあるので、テクニックが先行する場合もあります。
それから「ストアカの集客」という意味であれば、「お手軽に課題を解決できるテクニックが欲しい」とテクニック先行で学ぶ方もいます。そのため、必ずしも講師が教えたい順番どおりに受講生が受けるとは限りません。この点については過去に記事を書いていますので、こちらをどうぞ!
「マインドから学ぶ方が理想的」という先生もいるかもしれませんが、人が技術やテクニックを求める傾向にある以上、テクニック学習を入口に置くのもひとつの選択肢です。
結局のところ、全員に当てはまる絶対の正解はない…ということです。強いて言うなら、どちらも正解になり得るでしょうね。
入口をどちらかに限定するのも良いでしょうし、両方を入口としてお互いに行き来できるような講座展開にするのも有効かもしれません。