「鎌倉殿の13人」:大倉御所の完成と儀式の様子/ゼレンスキー大統領のイスラエルに対しての演説とそれへの反発
3月21日(月・春分の日)薄曇り
昨日は一日忙しかったのだが、なんとか「鎌倉殿の13人」に間に合うように帰ってきた。夜はインドにいる友人と少し話し、マンガを読んで、入浴してから寝たりしたら2時前になった。5時半頃一度目が覚めたが二度寝して、7時前に起きた。いつもに比べると朝が遅いので、ものを書くより先にご飯を食べることにし、セブンイレブンまでパンを買いに歩いたのだが、お彼岸の花を売っていたのでそれも買って帰った。今日は春分の日。ブログが書けたら墓参りにもいこうと思う。
「鎌倉殿の13人」第11回「許されざる嘘」。義時は八重との結婚を頼朝に許されるが、本人に断られて失恋回。三浦義村との「振られてからが勝負だ」という恋バナが笑ったが、まあ山本耕史さんのエピソードと重ねたメタの感想がネットには多く見られた。鎌倉では御所が完成し、頼朝は「鎌倉殿」と、頼朝の元につどう関東武士たちは「御家人」と呼ばれることになる、という区切りの回でもあった。
これは治承4年(1180)12月12日のことで、Wikipediaによれば「大倉御所」の侍所に311人の御家人が二列に居並び、侍所別当の和田義盛が出欠をとったとあるが、これは「吾妻鏡」によるもののようだ。311人を二列に居並ばさせるのは相当大きな本願寺並みの大きさの部屋が必要だと思うが、実際にはどうだったのあろうか。昨日の映像では頼朝の前に数列に御家人たちを並ばさせる形で表現されていたけれども、これは実際よりは映像的な印象を重視した演出だったのかもしれない。ただ単にそういう部屋がスタジオに用意できなかっただけかもしれないが。
頼朝は平家方の武将から没収した領地を御家人たちに与え、御恩を施して奉公を求めるという形が作られていくわけだ。頼朝は関東に蟠踞し京の平家と平泉の藤原氏と対抗する政権基盤を作ったわけで、これをもって鎌倉幕府の成立とみなす見方もあったように思う。
その他昨日も盛り沢山で、梶原景時の帰参と和田義盛の下での侍所所司への任命、治安維持などの下働きをしますと言いながらの早速の暗躍。頼朝の叔父・十郎行家の鎌倉訪問と挙兵の催促、行家に恩のある義円が動揺しているところに義経が現れ、同道を唆す。背中を押された義円は義経に頼朝への手紙を預け、勇躍挙兵に加わるが戦死。義経は手紙を破り捨て素知らぬ顔だが、そこを梶原景時に見られていて頼朝の前で叱責というよりは説諭される。義経と景時の対立の種をこういう形で撒くのかと思った。
都では平清盛が病死。有名な「頼朝の首を我が墓前に」というエピソードを採用。法皇は清盛の死去に御前で白拍子を踊らせ、自らは今様を歌って上機嫌だったが、宗盛が現れ後白河法皇に頼朝追討の院宣を要求する。鎌倉では清盛を討ち果たせなかったことを頼朝は悔しがり、平家のとどめを刺すのは自分だと宣言する。ここで源平の対立は抜き差しならないものになっていくという演出になっている。
一方でなかなか懐妊しない政子だったがようやく子を宿し、なんとか男児が生まれないかと手を尽くすが、その祈祷のために伊東祐親親子の恩赦が決まる。しかし全成の占いで千鶴丸を殺したものを処断し成仏させないと男児が育たないと出たために、恩赦に奔走した義時を裏切って梶原に命じられた善児が祐親親子を殺すが、頼朝は「自害した」と義時にいい、義時は涙を流して抗議する。
その後善児が梶原の家人になるという展開となり、昨日の「鎌倉殿」関係のタイムラインは善児に関する感想で溢れていた。
非常に盛り沢山ながら伏線をしっかり敷いたり善児をどんどん異形の存在にしていく展開など、脚本はすごいなと思った。それにしても作中、ろくな男が全然出てこないというか、純粋無垢に描かれることが多い義経がこれだけダークに描かれることは珍しいと思ったが、ただ戦法においてかなりエグいことをやる義経が性格的に明るい人間だったとは確かに思いにくく、新たな義経像としては興味深いと思った。
また普通はダークに描かれることの多い北条義時が、主人公とはいいながら気弱で情けないというか周りに翻弄されながらそれでも着実に職務に尽くしていくさまを見ていると、この主人公が権謀術数の谷間で最後まで生き残るのもある意味妥当なのかなという気がしてくるのも面白い。それとも今後周りの「薫陶」を受けて腹のある政治家として成長していくということなのだろうか。今後の描かれ方も興味深いなと思う。
そのほか牧の方の政子への嫉妬、江間の所領が義時に与えられそれを八重に告げる下りなどもいろいろと思うところはあった。
***
ウクライナ情勢ではイスラエルでゼレンスキー大統領のビデオ演説が行われ、プーチンをナチスのたとえてこれを止めるために協力してくれとの内容だったようだが、ナチスやアウシュヴィッツを「他の悪からはかけ離れた絶対悪」とみなす人の多いイスラエル政府からは、そこに関しては不興を買ってウクライナ政府としては困惑した、ということがあったようだ。ウクライナや東欧諸国ではソ連共産党による弾圧をナチスによる迫害と並ぶものと考える傾向が強まっているので、ユダヤ人のゼレンスキー大統領もそうしたウクライナでのナチス理解に基づいた発言をしたのだろうと思う。
ということは、「ナチスとの戦い」を支配の正当性として強くプッシュし、スターリンに対抗するために一時ナチスとも組み、反ユダヤ的な傾向を持つウクライナの民族主義者をナチスと非難することを公言しているロシアの立場と、イスラエルの立場は通じ合うことになるのだなと思った。ロシアでもポグロムなど大規模なユダヤ人迫害が行われているのだが、ナチス糾弾が一つの権力基盤であることはイスラエル政府にも共通しているということなのだろう。
この辺りはユダヤ人であるハンナ・アーレントが「イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」で凡庸な職務に忠実な小役人としてアイヒマンを描いたことに「ナチス擁護ではないか」と強い反発が寄せられたことと通じるものがある。日本でも原爆の投下をアウシュヴィッツになぞらえる言論があるけれども、これも恐らくはあまりいい顔はされないだろうし、何よりもイスラエルのナチスへの対し方と戦後の日本人のアメリカへの対し方が全く違うから同じものとみなしてはもらえないだろうなと思うが、日本人の原爆に対する感情と同じような感情が世界的には化学兵器にも向けられているとしたら、その辺のところはあるのだろうなとは思った。
日本でもアメリカでの議会演説で真珠湾に触れたことに反発する向きがあったのは記憶に新しいが、いかに巧みなゼレンスキー大統領の演説でも、歴史に関わることについて述べるのはなかなか難しいのだなとあらためて考えさせられた。