立場のある文章と立場のない文章、それに言語論的転回と「文章の三つの要素」(有料部分のあるnoteを書いてみました)
1月4日(土)晴れ
ここ二、三日、夜のうちに少し雪が降って車が白くなっているのだが、5時半過ぎに外に出てみたら道路も白くなっていた。ただ、白くなっていたという程度で積もっているというほどではないので、気温が上がればすぐに溶けるだろう。今のところの最低気温はマイナス2度、午前中には0度を超えるだろうから、昼過ぎまで雪が残ることはないと思う。ただこれから隣町のガソリンスタンドに行くつもりなのでそこはもう少し降っているかもしれない。
暮れに考えていた「立場のある文章」と「立場のない文章」ということについて、立場のある文章というのは「教える立場から」とかがあるということだけれど、「立場のない文章」というのはより客観的に先入観なしで書く、ということで、基本的に自分が文章を書く時には後者よりで書くわけだけど、めちゃくちゃ客観的に書く、というわけでもない。自分の心情を描写する時には自分の心に照らし合わせながら書くわけで、その辺りがより客観的な文章、ということになると思う。
ただいずれにしても思ったのは、「客観的な文章」というのが「立場のない文章」と言えるかという話で、要はそれもまた一つの立場、ポジションなのだ、というのが「言語論的転回」が主張した内容だったということをトイレに行きながら考えていた。より客観的に考える、客観的に書くというのは、ある程度の訓練のいる行為であり、そのトレーニングによって身につけられた一つの技術的立場みたいなものが科学の基礎になるわけだけど、それもまた一つの立場だといえば言えるし、それが誰かにとって有利で誰かにとって不利なものであった、ということは言えなくはない。
ここ数十年はその言語論的転回をめぐりそれに乗った批判やそれに乗った批判を批判する立場からの批判みたいな応酬が続いた感じだが、それもそろそろヤマを越えたという感じがあり、その辺がトランプ政権の2期目という形で現れているような気はする。
ただ実際の趨勢はそうであっても哲学的にはどうかということはあるわけだが、昨年どこかで雁琳さんが言っていたが「哲学でも言語論的転回をめぐる問題は次のフェーズに移りつつある」という話だったのでもうそろそろ大丈夫になりつつある、というかそのテーマはすでに時代遅れになりつつあるようには思う。ただ現実の世界ではまだその辺の問題は清算されてはいないわけで、言語論的転回がもたらした深い傷跡がしばらくの間は社会を疼かせるだろうとは思う。少子化問題とかも結局はそのへんが尾を引いているのだろうという気はする。
「立場」というのは「ポジション」という意味と「自分自身の主体的立場」という意味の二つがあると思うが、前者であってももちろん自分の意思を持って選択しているわけだから主体的と言えなくはないけれども、「その立場に立たざるを得ない立場」に立たされることで自分の主体とは別の見解を述べざるを得ない状況はないことはない。それは人間が組織とか集団というものを作らざるを得ない生物であるからであり、自分としてはこう思うけど組織のトップとしてはこう言わざるを得ない、みたいなことはあったりする。
まあそれはともかく、文章というものには三つの要素があるのではないか、ということを思った。
読んでもらえるかどうかはわからないけど、noteも有料note祭りみたいなことをやっているので、試しに有料にしてみようと思う。よろしければ以下も読んでいただけると幸いです。
文章というものの三つの要素。この辺は、上記を読んでいただいていたらそのままのことを展開しただけと言えばそうなのだけれども。
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