期日前投票に行く/トスカニーニを聴く/「ふつうの軽音部」:何度読んでも新しい発見があって面白い/大学問題:地方国立大学の位置について
4月22日(月)雨
昨日は9時過ぎに実家を出て車で上京。原PAでいろいろ調整し、双葉SAでトイレにより、境川PAでモツ煮弁当を買い、石川PAでトイレに行ってそのまま自宅まで走った。比較的すいていて着いたのは12時半ごろ。時間帯のせいか、他に要素があったのか。双葉SA上りの駐車場の止め方が変わっていて最初よくわからなかったのだが、前の方が分かりやすかった気はした。ただ入ってくるときと出ていくときの駐車スペースを選べるのはいいシステムだなと思う。奥まで行ってみたものの空きがなかった、みたいなことはよくあるから、出ていくときに止められるとありがたい。
自宅に戻ってからモツ煮弁当をチンして食べて、休憩しながら整理したり。2時過ぎに家を出て、期日前投票をしに行ったのだが、西友の前で参政党の候補が演説していて、そこにYouTuber候補が通りかかって作家党首がエールを送ったりしていた。区役所で投票を済ませるとNHKの出口調査の人がいてタブレットで質問に答えたが、消去法で選んだ投票先なので特に期待することもないからなんの政策に期待するかという質問には困ってしまった。地下鉄の駅前に出るとさきほどのYouTuberが作家党首と演説していて、近寄ることもなく地下鉄の入り口を降りた。
大手町に出て丸善で少し本を見たが買わず。帳簿のルーズリーフを売っていたのでそれは買った。半蔵門線まで歩いて神保町に出て、書店を数軒回ったけど買わず、文房堂の喫茶室で塩キャラメルケーキを食べてディスクユニオンへ。中古の新入荷を少し見ていたらトスカニーニ指揮・NBC交響楽団のモーツァルトとウェーバーのオペラ序曲集があり、買ってみた。新御茶ノ水まで歩いて地下鉄で帰ったが、帰りに西友によって夕食の買い物をし、帰宅した。ずっと雨は降ったりやんだり、帰りにはもう西友の前で演説している人はいなかった。
帰ってから夕食を取りながらトスカニーニを聴く。980円だったがジャケットはB判定なのだが盤質はAで、音もいいが演奏もいい。これは当たりだった。中古は当たり外れが大きいが、有名演奏家のものはやはりあたりが多い。
トスカニーニ(1867生)って戦後も活躍してるから最近の人のような気がするんだけど、ラヴェル(1875生)より8歳も年上なんだよなあ。現代音楽と彼が同じ時代に存在しているのもなんだか不思議な感じもある。フルトヴェングラーは1886年生まれなのでトスカニーニより19歳下なのだが亡くなったのはトスカニーニの方が3年後(1857死)なのでそこらへんも最近の人感がある理由だろうか。
19世紀の交響曲の話とかを読むと初演の評判が結構重要なんだなと思うのだが、現代音楽だとストラヴィンスキーとかが「火の鳥」や「春の祭典」で評判を取ったという話は聞くけどその後の作曲家たちで初演で大評判、みたいな人ってどれくらいいるのだろうか。現代音楽というのはやはり大衆性は失っていると思うのだけど、興行的にはどうなんだろうかなどと考えたり。
昨日日曜日に更新されたジャンププラス「ふつうの軽音部」19話。
https://shonenjumpplus.com/episode/17106371853064392379
前回のラストに出てきたイヤな感じの美女・レイハさんがいきなりはとっちのギターを借りて歌い出した「怪獣の花唄」、知らなかったが普通にいい曲だなと思った。調べてみるとカラオケ歌われた歌年間ベストワンになったこともあるようで、人気の歌だったらしい。
彼女の描写はこれでもかと彼女の「持っているもの」を見せつける感じで、はとっちは劣等感を刺激されそうになるが、そこから立て直してもっと傍若無人に歌おう、自分の憧れたロックバンドのボーカルはそうだったはずなんだと気づくわけだけど、この回のサブタイが「大海を知る」なのがとてもいいなと思った。
レイハさんもすごいけど、その先に「自分が憧れていたロックバンドのボーカル」が見えたわけで、縮こまっていた井の中の蛙だった自分が目指すべき目標を見た、まさに覚醒の回だったのだのと思った。何度も読んでいるうちに気づくことが多いのは名作の証拠だけど、「ふつうの軽音部」もほんとに名作だなと思った。ラスト2ページを画面を横長にして見ることでレイハさんの「黒さ」とはとっちのリベンジ感情がはっきりわかるのが本当に巧みだなと思った。
それにしても修行に入ってから自意識アニマルの出番がない。まあそんな暇ないということだけど、まあ全然見なくなるのも淋しいが、これはまあ「魔女の宅急便」で猫のジジが人の言葉を喋らなくなるのと同じで、「成長」ということなんだろうなと思う。まあ学校生活に戻ったら出番はまだまだ多いだろうとも思うけど。
創作作品というのは何度も読み返しているうちに気づくところがあるというのが名作の特徴であるわけだけど、最近は一般に文章は一読でわかるのが良いとされているわけで、そういう文章に慣れている人が多くなるとどんどん小説やマンガに対するハードルは高くなるよなと思ったり。ただ「ふつうの軽音部」は一読しても面白い、何度読んでももっと面白い、という作品なので、これからも期待したいと思ったのだった。
夜ツイッターでやり取りをしていて、「大学問題」、つまり大学は社会・国家の中でどういう役割を果たすべきか、みたいなことをかなり考えさせられたのだが、私は大学時代からかなりシンプルに「国家社会に有為な人材を育てるため」でいいと思っていたのだけど、問題は結構複雑なのだなと思った。
大学教育が国家のためなのか個人のためなのか、また研究活動というものが個人のためなのか国家のためなのかそれとも人類のためなのか、など形而上的なテーマも絡んでくるのでこのあたりは自分の意見は言えるけれども現実の趨勢は自分の考えとはかなりかけ離れたところで動いているのだなという気はする。ただこれはしっかり考えて書きたいところだなと思う。
一つだけ書くと、地方国立大学の問題だけど、地元から進学する人がある程度いるのは確かだが、国立なので全国から人が集まる。そしてその中でも教育熱・進学熱が高い首都圏の学生がより多く入って来やすいということがあるようである。
このあたりのことは医学部では以前から聞いてはいて、地元の大学の医学部に入学することを「都落ち」と表現されて失礼なと思ったのだが、学費を考えれば東京の私立より地方の国立、となるケースが多いのはまああるだろうとは思う。ただ場合によっては地元よりも首都圏の学生の占拠率が多くなるとその大学の地域性の意義という問題も出てくるから、特に医学部などに関しては地域枠という制度を設けて地元の学生を確保し、地域医療につなげようとはしているわけである。
地方の方が進学熱も教育熱も低いし教育資源も少ないから地方の経営を成り立たせるためには必要な措置だと地方の側からは思うがそこに不公平性があるという主張も成り立ちえなくはない。
また地方国立大の存在はその県の教育レベルを支えるものでもあるけれども、首都圏からの学生が多くなるとただでさえ首都圏に比べてチャンスが少ない地方の学生のチャンスがさらに減るという面もあり、国立大学の存在が格差是正の方向ではなく拡大の方向を加速しているという見方もあるのだそうだ。
そういう意味では首都圏への経済的・政治的一極集中こそがそうした教育格差を生んでいるわけだから、むしろそういう言う一極集中問題の一つの現れであって大学問題単体としてというより「国土の均衡のとれた発展をいかに実現するか」という古くて新しい問題の一環なんだろうと思う。
まあ私個人としては大学経営というのも市場原理主義的な考えではなく、国家社会のために有為な人材を育成するという崇高な使命があるということを自覚してもらい、それを国家・財務省・文科省もしっかり支援する、というのが正しいと思うのだが、左翼学者の蔓延によってそれが難しくなっているなどの問題はあるのだろうなとは思う。また近視眼的な市場経済主義による国の支援の欠如という問題もあるのだろう。
十分に全体像を描く余裕は今ないのでこれくらいにしておくが、そうした問題として意識されている事らを前提としたうえで、もう少し自分の考え方を詰めてみたいなと思っている。
せっかくブログ・noteを書いているので、自分でなければ書けないものをもっと書いていかないとと思うが、まあその辺を意識してまた書いていきたいと思う。
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