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ロックの日/「ふつうの軽音部」:歌声と人柄のカッコ良さが人を惹きつける/自分を分析する手段としての小説/欧米文化であるJAZZやバレエと日本文化の可能性

6月9日(日)曇り

今日は6月9日、ロックの日だそうだ。

昨日は朝、母の入っている施設に少し話をしに行き、昼前に出かけて昼夜の買い物をした。夜は少し帰るのが遅くなったが、ご飯を食べながら見ていたプロジェクトXの「伸び縮みする小児用の心臓パッチ」の開発ドラマを見ていて感動した。当然ながらこういう熱いものづくりのドラマは今でもそこここにあるのだろうけど、(前の日に見たプロフェッショナルの靴修理職人の話も感動した)知らされなければ知らないので、こういう話を放送してくれるのは私自身にとってはありがたい。夜は午前0時の「ふつうの軽音部」の更新まで起きているか迷ったが、疲れて2時間ほどうたた寝してしまったので朝起きてから読むことにした。


朝起きてからいろいろなことを考え始めてしまったのだが、最初に考えたのは小説を書くこと。小説を書くということは完全にフィクションを無から作り出すという考え方もあるが、私がそういうことをしようとすると、まずは自分の中にいるいろいろな人間、「神を恐れる少女」と「神に親しむ少年」、「人のことばかり考えているおばさん」と「人の世を楽しみたい若い女」、「何かを残したい老人と何かを作りたい青年」、「歌い続けている誰か」「なんでも知りたい少年」「誰とでも仲良くなろうとする少年」みたいないろいろな人を引き出してくる感じになる。少年の比率が高いが、まあいまだに根がそうであるところはあるんだろうなと思う。

自分のことをいろいろ考えてああでも内向でもないとやっているより、小説を書こうとした方が自分を知ることができるということはあるんじゃないかと思った。自分を知るため、自分を分析するために小説を書くというのは、ある意味ユング派の箱庭療法みたいなところがあるのかもしれないと思った。

金儲けをしたい、という常識人的な誰かというのもいないこともないのだが、この人は自分にとってはいまだ育成中で、自信がないけど正論は言う、みたいな「お金がないと生活できないしみんな困るじゃないですか」みたいなことは言っててそうなんだけどなんと言うかもっと大人に育てないといけないなと思ったりもしている。一方で社会を良くしたい理想人みたいな人もいて、この人はやや悲壮なところがあるので「まずは君が落ち着け」みたいな感じで宥めていたりする。

今の自分が描こうとするとこう言う人達が出てくる小説になりそうな感じはするが、こう言う小説は今まで実は書いたことはないので、そんな方向で一度書いてみるのもいいかなと言う気がした。お金を儲けようとか作家になろうとか言う前にまず、自分の中を観察するための小説を書く、みたいな感じである。

そう考えれば、歳をとってくるとつい感じてしまう「自分にわからない若い人の感覚」とか歳をとっていることのコンプレックスみたいなものを振り切って、「センスなんて古くったっていいんだ、自分の作りたいものを作ればいい。人は本当が何を欲しいのかなんて誰も分かってないんだから。」みたいなことを考えたりもできるわけだなと。自分の作りたいものを若い人に作らせようとするから嫌がられるわけで、自分が自分の作りたいものを作ればいいだけのことだから、もしかしたらつくったものを若い人が面白がったり好きになってくれたりするかもしれないわけで、まあそのくらいのものだと思ってまず作る、と言うことが大事なんだと思ったり。


一通りそんなことを考えた後で「ふつうの軽音部」を読み始めたのだが、もうめちゃくちゃ面白い。と言うか感動した。最初の1ページを見ただけでもう面白い、と言う感じだったが、彩目のハトノへの質問も、ハトノの返答もちょっと予想を超えていて、さらに歌い出したら圧倒的で、これはすごい、の一言。(このあとはネタバレを含みます)

メモをとりながら読んでいたのでメモを見返してみると「〜がすごい」「〜が神!」みたいなことばかり書いてあって語彙力が呆然としていて笑ったのだが、やはり今回のキーになるセリフは「なんで私をバンドに入れたいん?」と言う質問に答えての

「私 みんな仲良しのバンドよりかっこいいバンドが組みたいんだ」

というハトノのセリフだろう。鷹見に振られて投げやりになってる藤井彩目に「藤井さんはギターがうまくてライブ見て憧れた」とはっきり伝えることで、「あなたはカッコいい」と素直に言っている。そう言われて悪い気がする人はいないだろうし、何よりも自分が必要とされていると言うことがはっきり理解できるベストの回答だと思った。

鷹見と喧嘩したのは何故か、と言う質問に答えて「無性にムカつく。生理的にムリ」と素直すぎるズバッとした返答にあやめもあっけに取られて「確かにムカつくかも。笑うわ」と答えるのも面白いというか、相手が彩目だからと言うこともあるにしても、「生理的にムリ」が回答として正解という場合もあるんだなあと言うのは本当に劇作が上手いなと思った。そして

「鳩野は何のために軽音やってるん?」

と言う夕日をバックにしたシリアスな質問があり、これは本当にお予想外だったのだけど、それに「何かかっこいいこと答えたい」と思ったけど結局「よくわかんないかも」と答えるのが本当にいいというか、「口ではうまく言えない」と言うハトノの性質そのままのセリフで何かとても良かった。

そして歌われるのがフラッドの「理由なき反抗」。この曲は知らなかったが、こんなに状況にあった曲があるのかと驚いたし、鳩のの歌の描写も藤井と共に口をあんぐりするのにふさわしい描写で、鳩のの上達がすごく良く表現されていた。

曲の中で「一寸先は闇でも今はただレベル上げ」と言うのが鳩野の弾き語り修行をさしているのはもちろん、中学生時代の彩目が周りに受け入れてもらうために一生懸命ギターを練習した記憶を呼び戻すところも良かった。

そしてやや冷静になって、前よりはうまくなったけどまだまだだし、独特な声はミーハーな谷九高校の軽音部では受けない、などとごちゃごちゃ考えていたところに、「ざけんじゃねえ!」から声(書き文字)が潰れるほどの大声での歌唱になったところでビクッとして、鳩野の歌に引き込まれていき、「みんなには好かれんかもしれんけどかっこいいわこいつ・・・」と思わせる。

ここのところは、「ワンピース」でごちゃごちゃ逡巡し、考えているチョッパーに対して「うるせえ!行こう!」と叫んで仲間にするルフィの言葉を思い出させた。

その後、結局バンドに入ることになり、四人で話しているところを大道さんに見られて怖い顔をして照れているところは本当にこの彩目と言うキャラの魅力を全開にしていて、本当によかった。

考えてみると大失敗の初ライブの時にセミが肩に止まっているとかポケットに抜け殻が入っていたとか、今回も興奮した犬が駆け寄ってきて犬に小便をかけられるとか、動物絡みのエピソードが両方彩目が絡んでいるのがおかしいのだけど、「動物をも感動させる」と言う意味ではそれこそ古今和歌集の仮名序を思い出させたし、悟りを開いて最初に説法をしたのが鹿野園でシカたちに対してだったと言うブッダのエピソードを思い出させて、厘の慧眼に改めて恐れ入ったと言う感じではあった。

今回の25話「バンドを結成する」が作者さんのTwitterによるとここまでで一区切りということなので、本当に初期のコアメンバー集めが終わったワンピースの「東の海編」みたいな感じだなあと思った。

そしてジャンプ+のコメントの指摘で気づいたのだが、ルフィもハトノも黒目が点で表現されているキャラクターなのである。(「スキップとローファー」のミツミに似ているのもその点だ)よくみると微妙なニュアンスがあるのだが、少なくとも印象は点である。そういうふつう=モブっぽいキャラがしっかり芯を持って、人格と歌う声の力だけで人を集めるところがこのストーリーの魅力なんだというのは、これもどこかで指摘されたことだと思うが、その通りだと思った。


Twitterを読んでたら「日本人にジャズは難しい」という話があって、少し考えた。

ジャズというものが黒人のものなのか西洋音楽なのかということについては、私には西洋音楽が黒人のソウルを取り込んだのがジャズという感じがする。

日本の音楽は何を取り込んでも結局日本の音楽になる。それが日本の文化の強さであり、外国のアート(ジャズだけでなくバレエや美術でさえそうだな)をやろうとする日本人がぶつかる最大の壁だという気がする。

日本の芸は緩急とか余白の美とか存在そのものに多様な手段で迫るものだと思うのだが、世界的には人為で全てを埋め尽くすものが美だという感覚で、インドも中国もそういう意味ではヨーロッパと同じだと思う。ジャポニズムとか禅のブームとか日本のそういうところが評価されている時代には割と受け入れられないこともないのだが、大谷的な全てを野球で塗りつぶす「全振り」の方向性でないと日本人は彼らの土俵で戦うことは難しいだろうなと思う。これは「絢爛たるグランドセーヌ」でも言っていたが、日本人が彼らの文化であるバレエを踊りこなすのは、やはりヨーロッパのバレエ学校に留学して文化的なものを含めて吸収していくしかないということだと思う。

だいぶ昔の作品になるが、江川達也さんの「日露戦争物語」の中で漢学の素養が心底身についている正岡子規がどうしても英語を習得できないことを描いた場面があるのだけど、あれは私も物凄くよくわかる。自分の中の日本文化の強さが外国文化の取り入れを拒絶してしまう。

子供の頃ナルニア物語とか読んで外国の文化に触れているつもりだったけど、ああいう作品がいかに日本的に翻訳され、読みやすくなっているか、後になってわかって愕然とした。我々が触れているのはあくまで日本化された外国に過ぎなかった、いや、そこまで日本化する先人の努力や日本文化の強さはすごいのだけど、本当の外国文化は日本では味わう機会はなかったのだ、と大人になって初めて分かったわけである。

私はむしろ、日本文化のそういうしなやかな強靭さが日本にとって大事なものだと思うということを言いたいのだけど、ジャズやバレエなどの欧米文化を自分の仕事としてやりたい人にとっては、いかにしてそのハードルを超えるかというのはとても大事なことになると思う。大谷選手のようにメジャーリーグの常識さえ超えた二刀流を実現できる力があってこそ、日本の選手がその力を認められるという面があるが、ジャズに関しては「BLUE GIANT」の主人公・大のような「音の強さ」というのが一つのポイントになるように思うし、バレエに関しては「絢爛たるグランドセーヌ」の主人公・カナデのような身体能力、表現能力、理解力だけでない「コミュニケーション能力」がポイントになってくるのかもしれないと思う。

やはりまずはいずれにしてもそういう分野で日本人の世界的なプレイヤーが出てきてから出ないと、「日本文化」との融合した表現のようなものを実現するのは難しい気がする。今までの「日本化されたバレエ表現」とか「オリエンタリズム的に引用された日本文化」みたいなまだどちらにしても消化不良のものを超えていくには。逆にまずは純ジャパの漫画アニメ表現の世界輸出から、という方向性もあるわけだが。

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