文化の日/「書きたい文章」と「書ける文章」/「即興性」と「まとまり」
11月3日(木)曇り
今日は文化の日。昨日、どうも心に引っ掛かるところがあったらしく朝と来たときに頭の緊張を感じたので、あまり時間にしても眠れてないかなと思ってiPhoneを見たら4時50分くらいだったので思ったより寝られたなあと思って起きることにした。最近は5時まで寝るのを目標にしているのだが、大体その線で起きているので睡眠時間は一時期に比べると確保できているようには思う。
木曜日が休日ということで資源ごみの回収日が変わったりいろいろと対応が面倒なところはあるのだが、役所も病院もやってないからたとえ用事があっても今日はそういう仕事はしない、ということにできるところが週の中の休日の良いところではあるなと思う。移動祝日はやめて昔のようにして欲しいなと思っている。
最近は朝曇っているというか霧が降りているというべきなのか、という感じのことが多い。気温は7度くらいなのでそんなに寒いというほどでもないのだが、空気中の水分が多いということなのだろうなと思う。秋も深まるにつれて乾燥していくのが普通だが、今年はどんな感じだろうか。
どんな文章もそうだが、書きたいと思った文章、読んでみたいと思って書き始めた文章、つまり「構想・イメージの段階の文章」と、実際に書こうとして書いているときの文章というのは違うものになる。
いろいろ考えて「こういうことについて書こう」と自分の中で問題設定やそれについての調査をし、そこにある本質などについて考えて「こういうことがかければいいな」という段階のものと、実際にプロットを立てて書こうとしてみてから出てきたものとはかなり違いが出てくる。
それは、「書きたい文章」と「書ける文章」は違う、ということでもあるかもしれない。こういうのを書きたいな、と思っているときに思い浮かべているのは自分が感銘を受けた先人の文章から受けた感銘みたいなイメージなのだけど、実際に書いてみるとそれとは似ても似つかないものになってこれは読んだ人がどう思うんだろう、みたいな感じになる。
ただ、そういう文章の中にも、1年くらい立って読み返してみたら思ったよりよく書けてるなと思うものもあるので、書き終えたときの不全感というのはなかなか扱いに困る。しかし後で読んで見てやっぱりダメだなこれはと思うこともあるから、結局書き終えてそれを人に見せるまでの間は闇夜のトンネルというか自分でも正解がわからないびっくり箱を相手に渡すような印象がある。自分で書けたと思っていても相手には届いていない場合も多いし、何の気なしに書いたものが読んでもらえたりすることもある。これはTwitterで何がバズるかはわからないというのと近いところはあるのだけど。
ブログのように書きながら何を書くかを考える、言葉を変えて言えば即興性のある文章では、元々の「書きたい文章」のイメージが特にないまま出てきたものを膨らませているようなところがあるので、その場合は自分がそれについてどれくらいの蓄積を持っているかが勝負、ということになる。
自分の最近のブログの文章は概ねその場で書きたいことを書く、「書けている」かどうかについてはあまり考えない、という書き方になっているのだが、やはりまとまった文章を書いた時には「どれだけ書けているか」ということは気になる。
ただ文章を書くという行為にはある程度の気合とエネルギー、モチベーションがいるのでブログの文章もそうなのだが、書けている時は書けているし、ダメな時はダメなのだけど、ダメだと思うと書けなくなるのであえてそこは見ないようにして書いているところもある。この辺り、若い頃のように「書かずにはいられない」状態とはまた違うので、年齢など書く側の状況によって影響されるところもある。
即興性と言えば聞こえはいいが、言い換えれば行き当たりばったりなので、何か「まとまったもの」にはならない。私自身として「まとまったもの」を目指していないわけではないので、その辺に憾みは残る。ただ、「小さくまとまったもの」を作っても仕方ないという気持ちもあるし、その意味では即興性から出てくるものも大事にしたいと思う。