「コロナ後の世界」:マスクとワクチンは「危機管理」か「全体主義」か/経済の回復力/リモートと教育と文化/「自由と民主主義が合理的」は世界の多数派か

8月21日(水)曇り

朝起きて、なんとなく寝床の中で「私はコロナ後の世界に対応できていない」「コロナ後の世界はどういうものなのかわからない」というようなことを思い、「コロナ後の世界」とはどういうものなのか、起きてからネットでいろいろ見ながら考えていたのだが、「自分の身の回りの世界」でコロナ後にどういう変化が起こったのかということは、実際にはあまりよくわからない。ただその変化にうまく対応できていないという感覚だけがあって、対策もなかなか立てられない、というのが実際のところである。

自分の身の回りのことがうまく解決できないとあまり意味がないのだけど、今のところ議論として出ているものをまとめてみると「マスク」や「ワクチン」をめぐる問題を「全体主義の危険」と捉える方向と、感染症の拡大への危機感、「危機管理の問題」と捉える方向が対立しているということが一つ。危機管理という意味で言えば異常気象や地震のもたらす災害の問題も絡んできて、これも国家がどのくらい関わるべきかという問題、あるいは「ボランティア」をどう捉えるかという問題などに広がっていく。また埼玉県でクルド人の問題が取り上げられるようになったこと、それに対して「自警団」が組織されたらしいことなども「全体主義と危機管理」という対立しがちな問題もまた含まれている感じはする。

全体主義の危険を説くのは基本的に左派勢力、危機管理の重要性を説くのが基本的に右派勢力ではあるのだが、パンデミックに関してはその中でも経済を回せという議論がどちらかというと右派の方から起こり、ワクチンや国の対応を強化せよという要求がどちらかというと左派の方から起こるなど、単純に左右だけでは言い切れない問題がある。経済的自由主義は国民経済的な意味から右派的な論調もあるしGAFAなどの世界企業は左派的グローバル化の観点から自由を主張することもあるので、そう簡単ではない。

経済や産業、テクノロジー的な方面からは「レジリエンス(回復力)」の強化ということが問われていて、その辺にはAIなどの活用も含まれているということだろう。「仕事やり方=働き方」の自由化という点でリモートワークやZOOMなどの技術の問題、新しい経済需要の掘り起こし、「おうち消費」の拡大によるデリバリーやコンテンツ産業の対応などもまた「コロナ後の世界の変化」に入ることは入るだろう。

「人が集まる文化」がどうなるのか、ということはよく言われていたがこの点はだいぶ回復はしてきていると思うし、根本的にどういう変化が起こったのかはまだわからないのだけど、例えば教育のあり方などは「出席しなくてもできる」「集まらなくてもできる」という方向はかなり強まったようには思う。「教育と文化」というものがどう変化していくのかは関心事ではあるのだが、そもそも文化とは何か、教育はどうあるべきか、その交点である「文系文化・文系教育はどうあるべきか」という根本問題が結構問題化された感じはあって、私などは今その迷路の中でかなり迷っている感じはある。まあこのように言語化することが解決の第一段階なのだろうとは思うのだが。

ロックダウンやマスク義務化、ワクチン義務化といったものを含む「全体主義化」の問題の背景には国家や官僚制、あるいは市場システム、国際システムという「巨大システムの問題」というのもあり、人間が作り上げたものでありつつも統御不能なある種の怪物化した巨大システムとどのように付き向き合っていくのかという問題もある。危機管理的な思考ではシステム強化を図る方向にいくだろうし、全体主義からの解放という方向性ではシステムの解体を図る方向にいくだろう。マイナンバーやインボイスの問題を見ていれば右派はシステム強化、左派はシステム解体の方向性を持っているようには見えるが、別の側面、たとえば表現規制に関しては左派は強化すべきとし、右派は解体すべきという方向性を基本的に持っているので、これも左右で言い切れる問題ではない。

さらに大きな問題、というか世界規模の問題で言えば、「現代文明がどういう方向にいくのか」、もっとありていに言えば「西欧・欧米の覇権はどうなるのか」という問題があると思う。

世界的なレベルで、西欧文明的な意味での「自由と民主主義」がどのように評価されていくのか、ということでもある。その内実も当然ながら時代によって変化しているので、現代のように「能力主義(メリトクラシー)」が強化された状態をどう評価するのか、という問題である。この辺りは文明論的な話になってくるが、「能力主義を含む自由と民主主義、自由主義的市場経済が合理的である」という思考がどの程度世界的に共有されるのか、ないしはされているのかという問題である。

たとえば與那覇潤さんはnoteの「ロシアは西洋化せず西洋がロシア化する(のか)」において「西欧のロシア化」という問題について書かれている。

これは一見ショッキングな問題提起だが、一つの枠組みを設定すれば意図がわかりやすい。梅棹忠夫の「文明の生態史観」で、第一地域とされた西欧と日本、第二地域とされた中国やロシアなどの大陸の対峙という構造である。

これはマハンなどの地政学的な議論でも米英日のような「シーパワー」とロシアや中国のような「ランドパワー」の対立という観点から語られることもあるので、軍事的な側面だけでなく文明のあり方の構造の一つの試論としてはそれなりに有効性を持っていると思う。

ロシアや中国が陸上帝国的な性質を持っていることはもちろんなのだが、それらはロシアが仕掛けたウクライナ戦争の性格にも及んでいるだろう。またイスラエルはロシアや中東、ドイツなどからの移民が多いからなのか、地域的な特性に影響されたのか、民生的には自由主義国家的だが国防的には第二地域的な特性を持っているように思われる。そこで行われているガザ戦争も、イギリスやアメリカが行う戦争とは違う性格があるように思う。

19世紀以来、イギリスの帝国主義が世界を席巻したわけだが、彼らは当然ながら海洋国家的な帝国主義であって、文字通り世界の海を制覇し植民地を建設していった。そして帝国主義が割に合わなくなると独立を認め、一方で英連邦に所属するという形でつながりを残すという戦略を取った。

ロシアや中国は基本的に地続きに領域を拡大していく陸上帝国型の帝国主義だから、どこからどこまでは手放して良い、という思想にはなりにくい。中国が台湾・香港・チベット・ウイグル・南モンゴルの独立を恐れるのは、隣接する領域を手放せばどこまで食い込まれるかわからない根本的な恐怖があるからだろう。またロシアもソ連解体によってバルト3国や中央アジアは手放したが、「ウクライナとベラルーシはロシアである」という観念を捨てられず、ウクライナ戦争に至ったと言えるだろう。イギリスがマレーシアを手放すのは権益の放棄に過ぎないが、ロシアがウクライナを手放すのは生存とアイデンティティに関わる部分はあるだろう。

イギリスの時代が終わりアメリカの時代になっても基本的には自由主義的なグローバリズムが席巻し、特に冷戦構造崩壊以後はアメリカ一強の体制のもとで西欧的なグローバリズムが自由と民主主義、特にwoke的に変質した民主主義を押し付けていくことになった。

しかしその中でも、たとえば同じEUの中でもドイツやハンガリーはどちらかというとランドパワー的性格が強いので、ロシアと接近しがちな傾向がある。またNATOの中でもトルコは独自に中東世界の中での存在感を拡大しつつある。ランドパワーの中ではイランが一つの焦点にはなるが、彼らはシーア派国家である以上、イスラム世界の中でも世界的にも拡大には限界があるだろう。

ついでに言えば、同じランドパワーでも遊牧・狩猟民的な移動生活の世界と農耕民的な定住生活の世界は考え方や行動原理が異なるし、サブサハラのアフリカも移住する農耕民的な世界という他の世界の枠にははまらない独自の行動様式があったりする。コンキスタドーレスと先住民、それに奴隷として運ばれた黒人、あるいは他の世界から移住してきた様々な人たちが作ったラテンアメリカ世界は私にはいまだによくわからないのだが、言いたいことはつまり第一世界と第二世界というだけでは世界は語れない、ということである。

ただ、與那覇さんの問題意識と自分の感覚を重ねていうなら、ロシアが西欧化するという可能性が薄れつつある現在(というかピョートル大帝の時代からずっと西欧化とロシア化の二つのベクトルがロシアにはあった)、むしろ西欧がロシアの影響を受けてロシア化していくのではないか、という問題提起はあるだろうと思う。

つまりは「自由と民主主義が合理的なシステムである」という啓蒙時代以降の積み上げが、違う方向にいくのではないかという危惧だということもできる。世界的に見れば冷戦時代はアメリカの自由主義システムとソ連の社会主義システムを世界の国々がどちらを選択するか、という時期であったわけであるが、冷戦後はその後始末が大変になっている感じである。ソ連型システムを採用した国が社会主義の理想を捨ててむしろ権威主義化しているのは共通している感じはある。「自由と民主主義こそが合理的でありそちらに進むのが進歩である」という主張は、どの程度世界で共有されていて、またどの程度希望を持たれているのか、が問題なのだと思う。

私が思うのは、イスラエルの戦争を西欧諸国が支持していることが、この「自由と民主主義が合理的なシステムである」という主張を大きく損なっているのではないかということだ。逆に言えば彼らはそれを選択することで、自らの建前よりも第二地域的な原理を支持していることになる。このことは世界を幻滅させると思うし、それに至る前に戦争をやめさせることが急務であることは、彼ら自身がおそらく認識していることだろうとは思う。


コロナ後の世界ということで見取り図を書いてみると、現時点では大体そんな感じなのだが、コロナとは直接関係ないことも入ってきて、2020年代後半の成り行きの見取り図とでもいったほうがいいのかもしれない。ただ、ロシアはよくわからないが、中国に関してはコロナによる失速というのは感じる部分があるし、コロナが世界の針路に大きな影響を与えたこと自体は確かだろうと思う。

世界的にはそういう見通しを持ちつつ、自分にとってより身近な教育と文化の問題について、もう少し掘り下げて考えてみたいと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

kous37
サポートありがとうございます。記事内容向上のために使わせていただきます。