「勉強の仕方がわからない」とはどういうことか/学習が「タスク」と捉えられることに対する懸念/書きたいテーマと読みたい文章について列挙してみる

11月28日(木)晴れ

昨日は午前中母を連れて歯医者に行き、お昼の買い物をして早めに帰ってきた。

そのあとは必要があって「学習の仕方」ということについていろいろ考えたり書いたりしていたのだが、書いているうちに「学習」と「指導」について書き出したら止まらなくなってきた。

「学習」と「指導」について、どちらが書きやすいかと言えば、「指導」の方が書きやすい。「指導」というより「教えること」というテーマ、といった方がいいか。それは、私が「教えること」とか「指導」というものを「仕事」にしてきたから、ということが大きいなと思う。また、「指導」は他の人間に対するアプローチだから戦略的にさまざまに整理した形でやる必要が元々あるからアプローチの仕方も研究してきているし、それらは他人と共有もできる(実践できるとは限らないが)し、他の人のやり方から刺激を受けたり取り入れたりすることも多いので、言語化しやすいし、また自分でも言語化してきているし、また他の人の考え方も言語化されていることが多いからだと思う。

それに対して、「学習」というのは基本的に個人的な行為であり、仕事の一部であることはあっても仕事そのものではない。「研究」は仕事とみなされることもあるが、「学習」が仕事であるとみなされるのはある企業体の研修くらいのものだろう。また、非常時が仕事である軍という組織については、「軍の平時の仕事は訓練であり演習である」と永田鉄山が「新軍事教本」に書いていたが、これは消防署や警察署においてもある意味そうだろう。また人前でパフォーマンスをするのが仕事の人は、平時に自分を高めるための訓練や練習をしているだろうし、社会人でも「研修」という形で新しい技術や考え方を取り入れたり、思考実験を行ったりもしているから、広義の学習が仕事でないとは言えないが、学習の結果を生かすことこそが本来の仕事であって、学習だけに給料が出されているわけではない。

仕事の一部としての学習は、それを効率よくこなすことが求められるからある種の達成されるべきタスクであるわけだけど、子供の頃から始まる学習という行為そのものはタスクとイコールではない。

「学習の仕方」ということについて考えるためにいろいろな文章をネットで引っ張ってきて読んでいたのだけど、引っかかったのはそこだった。

学習の方法とか、そのやり方の考え方・方針というのはいろいろある。「わからないところは人に聞く」というのも一つのやり方だし、「とにかく何度も書いて覚える」というのもまた一つのやり方だ。「眠る前に暗記をすると睡眠中に定着するので効率的」というのは割合新しいやり方で、実験で検証されているようだけど、それもまた一つのやり方だろう。ただ、当然ながらそのうちの一つだけやればどの教科、どの分野もできるようになるというわけではない。

だからより全体的な「学習の仕方」、つまり「計画を立ててそれを実行する」とか「目標をはっきりさせてモチベーションを高める」というようなことも必要になってくるし、目標や計画を実現するためにより自分に適した学習法はないか、と検討したり探したりすることも必要になってくる。

https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400212331.pdf

東大とベネッセの共同研究によれば、ここ数年、「勉強の仕方がわからない」という子供が増えているのだという。これはコロナ期に「学習の仕方」が制限された、ということが大きいのではないかと私は思うのだが、研究によれば「勉強の仕方がわかっている」と感じている生徒は、こういう全体的な視点からの検討ができるとか、「とにかく書く」という(ような機械的な作業に陥りがちな)やり方や「わからなければ人に頼る」という(受動的な)やり方だけでなくて、さまざまなやり方を実践している、「つまりは自分からやり方を構築する姿勢と能力を身につけて持っている」ということのようである。(( )内、「」内は研究結果の私自身による解釈)

「学習の仕方がわかるようになった」というのはつまり、そうやって「自分で学習の仕方を構築できるようになった」ということなわけで、実はそう考えてみるとそんなに単純なものでもない。ただ、学習が得意だと感じるようになった時にはもうどうやってそのやり方を構築したのか(本当に「勉強ができる」人は多くの場合無意識でそれを実践している)を忘れてしまっているので、他の人に説明しようと思ってもうまくいかないわけである。「泳げる人が泳げない人に泳ぎ方を口で説明しても泳げない人は泳げるようにはならない」のと似た部分がある。

書き出してみるとまだまだ書くことはあるのだが、この場ではこのくらいにしておこうと思う。

ただ、一つだけ書いておきたいのは、「学習をタスクとしてのみ捉えること」への懸念である。確かに、合理的に学習するために学習をタスクとして捉え、それを効率的に行うことはある意味大事なことであるには違いない。しかし、ネットで読んださまざまな「学習の仕方の工夫」や「研究成果」の中には、確かに効率的に学習できるようになるとは思うが、「学習という行為・鋭意自体を嫌いになってしまう可能性があるのではないか」、と思われるようなものもあった。

世の中には、志望校に合格するために死に物狂いで頑張ったのに、進学後は燃え尽きてしまって学習する意欲が全く湧かない、という生徒・学生が一定数存在する。これらの中には、あまりに人間の認知パターンや生物学的な刺激ー反応システムを利用しすぎて、つまり「合理的に学習しすぎて」学習対象に対する関心を全く失ってしまったという例もあるのではないかという気がする。あくまで受験勉強というのは合格後にその学校で学習するための手段に過ぎないのだから、合格によって目標が達成できたと考えそのあと何もやらないというのは手段と目的が逆立ちしていることにはなる。

学習というのは機械的にやる部分もなくはないけれども、あるところからその段階は脱して主体的にやり方を考え、また興味の持てる分野への力の入れ方を考えるなど、「人間として」行う部分の方が大切になってくる。それは知を得るということに対する根源的な喜びにもつながることなのだが、タスクとしてのみ学習をこなすことによって一番大切な部分が捨象されてしまうのではないかという懸念である。メリトクラシズムの進展が社会に及ぼす悪影響というものの中でも、その辺りは懸念される部分だと思う。

孔子は、「これを知るものはこれを好むものにしかず。これを好むものはこれを楽しむものしかず」と言ったけれども、学習自体が楽しくなくなってしまえばそういう人たちの身によって構成される社会における学習は地獄のようなものになってしまうだろう。

もう一つは、「なんのために学習するのか」、つまり「学習の先にあるもの」についてである。明治になって爆発的に学習意欲が高まり、立身出世が時代のトレンドになったわけだが、彼らは尊王攘夷と文明開化の時代の申し子でもあって、学習する(学問する、というべきか)ことは国家国民のためでもあり、家族を養うためでもあった。

これは戦後は否定されがちな考えであったけれども、結局のところ国家のエリートは国家国民のために働かなければならないわけだけれども、それらの(男性原理的と言ってもいいか)エリート倫理が頽廃してしまうというのは日本に生きている人たちにとって由々しき問題であるし、決して否定されるべきではない。

「世のため人のため」に働くことが「自分のため」にもなる、というのがエリートにとっての学習を支えているわけで、文部次官が「座右の銘は面従腹背」だというような社会は困るわけである。

「学習=タスク」という思想が、学習は自分自身のため「だけ」のものであり、学習者に便宜を図るのは特定個人の優遇になり差別である、というような発想を強めているのではないか、と懸念するということである。


今日はこのことについて書くということもしようとは思っていたのだけど、他に書きたいこともいくつかあり、メモも作成してあるのだが書き出すとキリがないのでテーマだけ書いておこうと思う。

一つはフェミニズムが「男性を搾取する思想」に陥っているのではないか、という懸念について。

二つ目は「クレームをつける人はクレームをつける相手の事情を考慮するべきではない」という思想の問題点。

三つ目は「再配分」より「減税」が重要な理由。四つ目は日本国憲法の、国家は国民の自由を守る義務があるという理念から敷衍される他国からの侵略を防ぐ義務について。

四つ目は、少子高齢化問題について。高齢者の女性の占める割合の大きさを考えると、少子高齢化問題とは女性問題でもあるということ。その対策としての婚姻数を増やすことは「キモい男性の結婚願望を叶える」ことではなくて「将来の高齢女性の生活を支えるために必要であること」ということ。

五つ目は、「ふりかけに見る日本の食文化の凄さ」について。これはこちらの記事の論評でもある。

また、読みたい文章もたくさん出てきた。昨日取り上げた川口のクルド人の問題の産経の連載記事も興味深いが、オープンレター派を告発する與那覇潤さんの論考も読みたいし、維新の問題を取り上げている石戸諭さんの論考も読みたい。

実際のところ、忙しい時に限って書きたいテーマ、読みたい文章がたくさん降ってくるものだなと思う。時間を作りながら一つ一つ書き、読んでいきたいと思う。

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kous37
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