「セクシー田中さん」:「原作尊重」とはどういうことなのか/「となりのトトロ」:ヒーローとしてのお兄ちゃんお姉ちゃん/「ふつうの軽音部」:「お父さん」の出番はいつか
6月5日(水)晴れ
昨日は午前中は夜上手く寝損なったのでぼーっとした感じだったがやることが多くて、経路図を書いて順番に仕事をこなす感じだった。
最初に行ったツタヤでジャンプコミックスの新刊と「アラバスターの季節」の最終巻を買ったのだけど、「バンオウ」と「Beat and Motion」がなかったのでもう一軒の書店に行って「バンオウ」は買えたが「Beat and Motion」は結局入手できず。ジャンプラのこの作品は最近面白くなっているのだけど、順位もなかなか上がらない(土曜日の8位くらい)ので、流石の集英社も部数が渋いのかなあとは思う。ただ思ったのは、昨日も欲しい作品が本誌連載とジャンプラ連載で合わせて13冊あり、一度に発売するには流石に少し多過ぎるのではないかと思った。本誌作品とジャンプラ作品を違う日に発売するようにしたらジャンプラの下位作品にももう少し日が当たるんじゃないかなと思ったのだが、どんなものなんだろうか。
信金でお金をおろしてイオンまで行って接待のお菓子と昼ごはんを買い、イオン銀行のATMでお金をおろして、再び市内に戻ってきて地元の銀行で入金したり預金を振り替えたり。その後会計事務所へ行って支払いをして帰宅。昨日は雨の予報だったからかガス管の工事はしてなかったのだが、やるのかやらないのかその時までわからないというのは車を走らせる経路を変えなければいけないので本当に不便だなと思った。
仕事中もいろいろやることが多くて結構忙しかったが、まあ忙しくなってきたのはいいことだなと思う。もっと忙しい必要はあるのだが。
https://doc.shogakukan.co.jp/20240603a.pdf
「セクシー田中さん」に関する小学館の「調査報告書」、忙しいのとメンタルに影響が出ない時間に読みたいということもあって後回しになっているということもあって15ページくらいまでしか読めてないが、社内の人間関係とか相関図を書かないとわからない感じでまあそういう意味では詳細である。日本テレビの報告書は当然ながら日本テレビ内部の仕事の仕方が書かれていたが、小学館の方はマンガ編集の内部の仕事については簡単に触れている感じだった。こういうのは私はマンガを出す出版社の編集者者の作品などをそれなりに読んでいるから多少はイメージできるが、内部でどういう仕事の進め方をしているのかというイメージは日本テレビの文書の方がわかりやすかった気がする。
基本的に今まで読んだところでは、出版社並びに編集部はマンガ家の味方なんだということが力説されていて、担当の編集者も芦原さんと10年来の仕事の付き合いだというのは分かったのだが、芦原さんを失ったことに関する悲しみや憤りみたいなものは感じられたが、自責の念というか「出版社としてマンガ家を守れなかった責任を痛感している」という感じがもう一つ今のところ感じられないなあとは思うのだが、その辺りは後半で触れられているのかもしれないので最後まで読んでから総括したいと思う。
日本テレビの報告書を読み、いろいろな人のコメントを読んで最大の問題の所在がどこにあるのかというのはいくつか考えてはいるのだが、主たるプロデューサーの責任というのは各所で指摘されているけれども、「改変された箇所を原作者の意思に沿う形で修正する」ということが「ものすごく困難であった」ということがこの問題のかなりの核心にあるとは思ったので、それがなぜ起こったのかということがわかるといいなと思った。日本テレビの報告書の中では、「コアメンバーによる番組制作の方向性の大枠の話し合い」に原作者ないし原作者サイド(編集者)が参加していないことが述べられていて、結局そこに大きな問題があったということではないかと思っているのだけど、この辺りも最後まで読んでから総括したいとは思うけれども、「日テレ側」と「原作者側」の「埋め難い溝」が生じたのはこの最初の「方向性を決める話し合い」の不整合があったのに、制作者側も原作者側もそこを軽くみてしまったのではないかという気がした。
日本テレビ側からは脚本に難色を示す原作者に対して再三に渡り「コアメンバーで話し合った結果を脚本に起こしているので脚本家だけを非難されても困る」と言っているのは基本的にそういうことではないかと思うのだけど、原作者としてはその話し合いよりも自分の修正要求が優先されるべきと考えていて、その辺りが脚本家自身もそうかもしれないが「コアメンバー」が受け入れないからそうなったということなのだろうと思うけど、日本テレビ側は「話し合いで決まったことは反故にされるべきでない」と考えていて、その辺の硬直性と「仕事の進め方に関する考え方の違い」がお互いに認識されてなかったということが一つ大きい気がする。
日本テレビの報告書で「関係者が安心して仕事を進められる」というのはいろいろ読んでいくとつまりは基本的に「脚本家が誰の指示を最も重視すれば良いのか」が明確であることが重要だということなのだと思うけれども、脚本家の立場ではテレビ局からギャラをもらうのだからプロデューサーの指示が最重要だと考えるのは当然で、その辺が結局曖昧になったのではないかという気がする。
まだ読んでいない部分がどこかで取り上げられていて「改変にしても「そうくるか!すごい!」というような改変ならいくらしてもいい」と原作者が言っていたようなのだけど、それは創作する側としてはすごくわかる。最近のマンガのアニメ化がとても良くなっているのは、基本的にそういう方向の制作姿勢が強くなっているからであることは、このブログ(note)でも何回か書いた。というかドラマ化とかアニメ化というのに作品のクォリティ上の意味があるとしたらそういうところでしかないのは当然で、芦原さんも「そのように改変される」ことはむしろ楽しみにしていたのではないかと思うし、実際に行われた改変が全くそういうものではなく、視聴者ウケとか制作の都合とかそういう次元のものにとどまっていたからプロデューサー側や脚本家に対して強い不満を持った、のだろうなと思う。これでは「共に作品を作るパートナーと呼ぶに値しない」と考えても当然だっただろうと思うし、脚本家の降板劇など普通起こらないことが起こったのはそういうことだろうと思う。
まあこれは原作者の方向性と脚本家の方向性ないし技量や特質がミスマッチだったということに最終的にはなるのだろうと思うけど、その辺の見極めはやはりプロデューサーの責任だろう。
もう一つ思ったのは、制作側が原作を読んだ時の感想が簡単に言えば「会話が多すぎて視聴者アピール的に物足りないから要素を足していこう」というものだったあたりで、こういう考え方を「原作尊重」というかといえば原作側はまあ絶対にそう思わないだろうなと思った。作品を読み込んで掘り下げていってその中から強調したい点を取り上げていく、という作品に内在する要素をより膨らませてドラマ化していく、ということが「原作尊重」ということなのではないかと思ったし、現に上手くいっているアニメ化はそうなっていると思う。
テレビ側はそういうことよりも、自分たちが持っている技術やキャスティング能力、脚本力も含めて、ウケを狙うしかけみたいなものという意味での「自分たちの技術・能力」を活かしてこそのドラマ化だ、という自負が強く、それを使わせてくれない原作者を「難しい人」と感じているのではないかと思った。
まあ中間総括ではあるが、「原作尊重」に対する考え方の違いが悲劇の最大原因だったのではないか、と今の時点では総括しておきたいと思う。最後まで読んでからまた振り返ります。
「となりのトトロ」のサツキは今で言うヤングケアラーであり、この状況で仕事に専念している「お父さん」に問題があるのではないか、というツイートを読んで、いろいろ考えたのでそのことについて。
当然ながら時代背景が違うので、「ヤングケアラー」という言葉をこの状況で使うのはあまり適切ではないと思うのだけど、簡単にいえばこのくらいの状況は昔だとむしろ普通にそこら中にあった、ということなのだと思う。お父さんは仕事で忙しく、お母さんは入院しているから、「お姉ちゃん」が頑張らないと!みたいなことは全然珍しくなかった。
今ではその状況に対して「公的な援助を」とか「父親は仕事を犠牲にしてもっと家庭に関わるべき」みたいなことになりがちだが、郊外の村落共同体がまだ生きている社会にあってはそれなりに子供たちが社会の中で育つ、ということは可能だったし、その中にあっても「お兄ちゃん」や「お姉ちゃん」が責任感を持って弟や妹の面倒を見たり、家のことをやったりするのは当たり前のことだった。
というか、今の家庭の中で子供が役割を与えられず、勉強と部活だけしていればいい、みたいになっているのがむしろ不自然だと私などは思うのだが、兄弟で助け合って、というのが一つの社会の基本だったからやはり複数の子供がいるのが昔は当然だったのだろうと思う。
昔の人の文章を読んでいてもよく思うのは「お兄ちゃん(お姉ちゃん)」は弟や妹にとってのヒーローだった、ということが多い。兄や姉は身近にいる憧れの存在だったわけで、逆にいえば日本の「ヒーロー」というのは兄や姉の延長線上に存在する、フィクション化された「お兄ちゃん(お姉ちゃん)」であり、スーパーマンなどの社会的存在であるアメリカとはその辺りが違うのだと思う。
とはいえトトロのサツキはまだ子供なので、無理して頑張っていた部分も劇中でも指摘されているが、最終的にはいざとなったら大人が出てくるという構造が安心感を与えているし、村落の人間関係だけでなく自然の中にも親しめる存在がいるというファンタジーもまた、宮崎さんにとって書きたいところだったのだろうと思う。(日本人にとっての自然はむしろ恐ろしいものだったと思うが、その辺りの転換についてはまた考えるべきところがあるだろう)
逆に同時上映の「火垂るの墓」はヒーローになろうとして失敗して二人とも死んでしまった「お兄ちゃん」の話ともいえ、こちらは大人の援助がない、あるいは拒絶しているわけである。これもまた一つの現実であって、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」が同時に上映されたことの意味はそういうことなのかもしれないと思ったりもした。
ヒーローとしてのお兄ちゃんお姉ちゃん、あるいはお兄ちゃんお姉ちゃんの延長線上のヒーロー(女性も含む)というのはある意味日本独特である気がする。その辺りに日本の家族の絆というものの創作にまで現れた強固さというものがあるのではないかと思った。ナウシカも、プリキュアも、近くはチェンソーマンまでその要素は感じられる。
いろいろ書いてから「ふつうの軽音部」について書こうという順番にいつもなってしまって時間もリソースも無くなっていて困るのだが、2巻を読んでいろいろ思ったことの一つについて書いておこうと思う。
それはつまり、主人公の鳩野ちひろは、お父さん(両親は離婚して別居している)が大好きだよな、ということなのだけど、最初のバンド名の由来である「ラチッタデッラ」は川崎にあるお父さんといったモールの名前だし、最初に熱唱して厘を驚かせた「Everything is my guitar」でもバックで離婚の時のちひろの抵抗が描かれている。それ以前にまずちひろがギターを始めたりロックが好きだったりしたことも父親の影響だということも言われている。
原作(旧約聖書)とも言われるジャンプルーキー版ではギターを始めた頃のちひろの前にお父さんが現れてエフェクターをくれる場面があるのだが、ジャンプラ版ではそれがカットされていて、おそらくは父親との再会がもっと劇的に描かれるために省かれたのだろうなと思う。
まあトトロのサツキの件もそうだが、日本の創作、特にマンガにとって「兄弟」特に「お兄ちゃん・お姉ちゃん」というのはすごく重要だし、また父親や母親との関係もまた人気作品では取り上げられていることが多く、その独特の意味と重要性、また守っていくべきものとしての家族関係みたいなものとしても、考えられて良いことではないかと思った。
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