同時多発テロから23年/「家」と「個人」とその「繋がり」と/「不滅のあなたへ」と個人の形/「聲の形」と絶対的と思われた「被害者・加害者関係」の不安定さ
9月11日(水)晴れ
911同時多発テロから23年。今日は仏滅で三隣亡、上弦の半月。いろいろ重なっているのでおとなしくしておいたほうがいい感じなのだが、Twitterを見ていても朝からなんとなく不穏なツイートが多い。
昨日は午前中はそれなりに涼しかったのだが、午後はいられないくらい暑くなって、入浴した後も汗をかいて下着を替えなければならなかったり、もう9月も中旬に入ったのにという感じ。朝夕は涼しいのだが、明るくなるのが遅いので朝のうちに草刈りなど外作業をしたりという時間があまり取れない。今朝目が覚めたのは5時半だったが、起きた時に明るいと寝坊した気持ちになる。まあ昨日は懸案を一つ片付けたので少しほっとしたところはある、ということはあるのだが。
時間のある時にギターを引っ張り出して「怪獣の花唄」と「拝啓少年よ」を歌ってみたのだが、もちろん技術的には相当衰えているのだが、コードチェンジの時には思ったより左手が動いて体が思い出している感じがあって面白かった。録画してみてもまあひどいのだがひどい部分よりも思ったより弾けてる、思ったより歌えてると思ってしまっているので自分に対する評価が相当下がっていたのだなとは思った。昔は録画も録音も大変だったから、今の人はかなり練習環境には恵まれている面はるよなと思う。
一時期めちゃくちゃ凝ったコード進行の音楽が流行った時代があったが、これらの日本ロックは割と単純なコード進行なので、素人がギター抱えて歌うには割といいかもしれないとも思う。「ジターバグ」もちょっと試してみようかなと思う。どれも「ふつうの軽音部」の影響である。
自分は長男で実家と母の面倒を見てはいるが今は独身で子供もいないから今後どうするのかはいろいろ考えたり兄弟たちと協議したりはしなければいけないのだが、兄弟たちの話を聞いてもやはり「家」をどう守っていくかという発想はないようで、そういうところを今後どう考えていくのかは難しいなと思うところがある。家と土地も田舎にあっても都会に暮らす人たちには重荷になる部分が大きいし、あとは墓とか檀家寺との付き合いみたいなものをどうしていくかという問題かなと思う。墓は昔からの共同墓地なので管理者がいないから自分で草を刈ったりしにいかなければならないし、実家に誰かいることが前提で作られた仕組みであり、まあここに遡れば200年以上は住んでいたので私は「家」というものを意識せざるを得ないのだが、家と個人という問題については理屈で割り切れないところもあり、なかなか難しいなと思ったりする。
昨今は実家仕舞いなどという言葉も流行っているが、実家といっても親が建てたうちというのと200年一族が住んできた家というのでは事情はかなり違うし、あまり簡単に括られたくないという気持ちはある。昔だったら兄弟や親族が困ったら本家が援助をする、みたいなこともあったわけだが最近はあまりそういう話もない、というか面倒見が良かった叔父が亡くなって以来はあまりそういう関係も薄らいできた感じはある。
しかし地元で商売をしているとそういう人間関係は主にでもあるがいざという時に頼れるものでもあるので、ある程度は維持するのが正しいとは思うのだが、都会でサラリーマンをやっている人にはなかなかそういう感覚は伝わらないなというものもあって、何を大事にするかの価値観の違いが顕在化するとこちらの方がオールドタイプであるだけになかなかうまく説明できないところがあったりする。
私自身が田舎が面倒くさくて都会の大学に行った人間だから、さまざまな経緯を経て今は自分が田舎で「本家の長男」をやっていることはある意味不本意なところがあるのでその辺は尚更、という感じもある。
まあそこら辺は、「個人」を重視するのか、「人との繋がり」を重視するのかという古くて新しい問題なのだろう。近代的な思想では「個人に立脚して新しい関係を築いていけばいい」ということになるし、若いうちはまあそういう関係もどんどん作れていくけれども、歳をとってくると本当に信頼できる関係というのはなかなか作れないし、若いうちにできた関係もだんだん疎遠になっていくから、むしろ法事などで顔を合わせる親戚の方が関係が更新されていく感じが出てくるわけである。
「不滅のあなたへ」を読んでいるとそういうことを考えるところがあって、まあ作者の大今良時さんは前作の「聲の形」の時からそういう、「個人の形の不安定さ」「人とのつながりの不可思議さ・理不尽さ」みたいなものを描いているのだよなと思う。
人間ではないのに人間らしく生きる意欲の塊であり、「ある人間」のために積極的になんでもやろうとする「人形」と呼ばれる人形がなぜ生まれ、どう行動してきたのかというのが今連載でやっているところなのだが、これは未来世界での出来事である。
「不滅のあなたへ」は手塚治虫の「火の鳥」のように超古代から部族時代、帝国時代、現代を経て未来編が描かれている、「火の鳥」では時代を通じて生き続ける火の鳥は運命の象徴でありある意味徹底的に傍観者なのだが、「不滅のあなたへ」では不死の存在である「フシ」が人間のように悩み苦しみながら生きて、死にそうになったり復活したりして、そしてその仲間たちをも不死の存在にしてしまうというある意味「生の原則の禁忌」を破るようなことをするわけだけど、それはつまり「不死の存在」にとっては「すべてはやがて失われていくもの」に過ぎない、ということを逆手にとって人と人との関係の意味の再考を突きつけてくるところがあるわけである。これは超長命種族であるエルフのフリーレンの「人間を知るための旅」というテーマと通じるところがある。
「人形」は実は「コピーされた生命体」の一人の人間として生まれ、長命を約束された未来社会に必須の「タグチップ」を埋め込まずに生き続けるために「(人形という)ものに自分をコピーする」という実験によって生まれた存在であり、それが禁忌に触れてコピーされた仲間たちは虐殺された、という過去が今語られている。
自分という個人がもしそういう存在だったとしたら、その自分は本当に「個人」だろうか、という問いかけであるように思われる。
人間は「個人」である、という思想は、おそらくは物質の根源は「原子」であるという、一つ一つのアトムの集合体としての社会という発想からの物理学的なアナロジーで生まれたものであるような気がする。それとも逆に、「原子」という「世界を構成する最も基礎的な粒子」が存在するという思想自体が「個人」という思想からのアナロジーなのかもしれない、とも思う。
個人は自分の意思によって規定される部分もあるが、遺伝的な要素を含めて関係性によって構成される「現象」でもある。その関係性は時に容易に逆転する場合もあり、個人の不確実性のようなものもまた明確にある。
前作の「聲の形」では、耳を聞こえない少女を徹底的にいじめた少年がそのことによりクラスという共同体から排除されたり、一念発起して謝罪を試み、それが徐々に受け入れられていくが、その歪な在り方の果てに少女のために少年が命を落としそうになり、「被害者」と「加害者」という関係性が逆転する。最近読んだ「聲の形」の批評では少女は自分が被害者だと必ずしも認識していなかったのではないか、という考察を読んだのだが、まあそれもあり得るにしても、少年が自分が加害者であるという強い認識を持っていたことは確かで、そうでありながら少女に謝り、少女のために何かをしようとする正直読んでいてしんどい話であって、私は全巻持っているが他のマンガと違っておそらくは2回くらいしか読み返していない。今も手元にないからあまり正確な記憶かどうかも自信がない。
今考えていて思ったのは、「加害者」と「被害者」という、ある意味絶対的な関係性が実は不安定な、変わり得る関係であるということであり、それによって自己=個人の形が形づくられるとしたら、「個人」というものも実は思ったよりも不安定で形がはっきりしないものなのではないか、というテーゼが作者さんにはあるのではないかということを思ったのだった。
その辺りを考えるとやたらと「女性=被害者」「男性=加害者」という固定された関係を強調したがる「フェミニズム」の滑稽さを浮き彫りにしている感じがするし、「被害者ー加害者関係」の固定観念を乗り越えなければ先に進めないのに、フェミニズムだけでなくBLM、反レイシズムなども含めてよりその部分を強調する思想が強化されている現代社会のアポリアもまた浮き彫りにしているようにも思った。
主人公の少女は耳が聞こえず、それゆえ喋ることもできない。最低限の音を補聴器で拾い、筆談で意思を通じさせようとする。だから彼女の「聲の形」は彼女の個人そのものの形であり、「声」にその人を象徴させている、というかある意味実態と見ている。
だからこの作品において、「声」は物理的な存在であるだけでなく「言葉」でもあり、「マンガの書き言葉としてのセリフ」がそのキャラクターの「個人の形」でもある。
それが「不滅のあなたへ」では「一度会った人間(生物でも)にはその姿に変わることができる」能力を持った「フシ」という存在が、出会ったさまざまな人たちの形になることが「フシ」の生きてきた内容の全てでもあるわけで、そういう形としての「個人」とは一体なんだろうかという方向に一般化されているのではないかと思う。
そして最終章であるーと自分は勝手に思っているがー未来編においてすでに「人間ですらなくなった個人」である「人形」はどう生きていくのか、について思いを巡らさずにはいられないわけで、我々が絶対視し、またたとえば法学においては「不可侵の主体である個人」の不確かさ、不定形さについて、我々の社会認識のあり方そのものがそれでいいのかと問うてくるところがあるよなと思ったりしたわけである。
まあ今日はこんなところで。