「書こうと思えばいくらでも書ける」というのはものを書く上で大きな才能/「ふつうの軽音部」キャラ人気投票/アメリカ黒人のアイデンティティ:「「移民」とアイデンティティ」という古くて新しい問題
1月12日(日)薄曇り
昨日は午前中作業場の整理を少ししたり。午後はいろいろやって帰ってきたのは7時半くらいだったか。夕食を食べて少しネットを見て10時半には寝た。起きたら4時半で、まあ大体疲れは取れた感じ。左足の指先が痛いのでどうしたかと思ったらひび割れていた。かかとは今までもひび割れがよく起こっていたが、つま先がひび割れたのは初めてな気がする。いずれにしても乾燥していて、水分が足りないんだなと思う。
今朝は起きてからまず風呂に入って、その後「ふつうの軽音部」53話「力になる」を読んだ。
以下この段落ネタバレ。内容的には夜の公演で一人弾き語り練習をする鷹見の意外な姿におっと思ったり、鷹見と3年生の喜田がとても親しい感じで鷹見の兄の件が少し明らかにされ、喜田がそれを心配しているのを見てまじイケメンだなこの男、と思ったりしたのだが、鶴の思惑通りにパート練習が崩壊して困っている亀谷兄妹に厘が接近するのはその仕方が「こう来たか!」という感じではあった。
昨日は「ふつうの軽音部」の分析について書いたがあまり反応がなくて、まだやはりこの作品も十分にメジャーにはなってないんだなあと思う。今日は東京に帰るので、渋谷と新宿のタワレコのポップアップショップにも行ってみたい。連休で混んでなければいいのだが・・・とは思うのだが。まあこういう作品は世に広まってほしいという思いとほどほどがいいな・・・という思いと両方あるのだが。
また、新しい話の更新とともに「ふつうの軽音部」の「キャラクター人気投票」もスタートした。私のフォローしている人たちのポストを見ていると皆まちまちのキャラクターに投票していて面白いのだが、私はまずは主人公の鳩野ちひろに入れた。これは誰でも毎日一回投票できるというシステムなので、いろいろなキャラクターに投票できるのだが、こういう投票の初日はだいたい主人公に入れる。もちろんはとっちの主人公力というものも大きいけれども、この物語は他のキャラそれぞれの魅力も大きいので、結果が楽しみである。
この人気投票の対象になっているキャラクターは58人いるのだが、そのそれぞれに「50字に統一して」キャラクター紹介が書かれていて、ほとんどが作中で語られていない新情報であるところがすごい。来週は通常更新がお休みだそうだが、「軽音部ロス」になる人たちのために多めに情報を供給しておいた、ということなのかもしれない。
私としても発見が多かったが、作中「ドギャル」として出てくる派手なギャル二人が三年生であるというのが個人的にはツボだった感じである。また、ちひろの母親が「若い頃は椎名林檎に憧れて難しい漢字を多用したりハイライトの煙草を吸ったりしていた」というのも「あーあー」という感じなのだが、友人の娘が椎名林檎を推していたことを思い出し、ちひろ母が彼女と同世代なら私が世代的に一番近いのは水尾祖母だなと思ったりした。ここまで枯れてはいないが。
しかし50字のいわばコラムを58個考えて書くというのはやはりすごいなと思ったが、こういうふうに「書こうと思えばいくらでも書ける」というのはやはり才能だなと思う。ある意味、ものを書くという上で一番重要なのはこの才能かもしれない。最近はAIに頼ることで適当であればいくらでも文章が出てくるようになったが、これはあまりいいことではないというか、湯水のように文章を生み出す才能というものが返って阻害されるのではないかということを危惧する。
こういう能力というものは作家というかものを書く人にとっては根本的に重要なもので、いくら機械が発達しても人間そのものにそれを備えていることは必要であり、それは例えばコンピュータにいくらでもデータが保管できても、無尽蔵な専門的記憶が湧き出してくる人の価値は変わらないということとも重なってくる。というか、無尽蔵な記憶によって検索能力も発達してくるから、外部記憶装置があったら鬼に金棒だろう。この辺りは作文能力においても同じだと思う。
クワハリさんの物語作成能力の凄さ、その個性を支えているのはやはりこの無尽蔵な作文能力にあるなと改めて思ったエピソードではあった。
私も毎日ブログ(note)を書くことでこの作文能力を維持・強化しようと思っているのだが、もちろんそれを必要な形にまとめる編集能力も必要だしそれはある意味書くこととは別の能力なので、その辺りも鍛えていかないといけないなとは思っている。
シリア解放の余波として、シリアを通るパイプラインの建設が構想されているのだという。ヨーロッパも今まではロシア依存が酷かったから、これが実現したらより強い態度に出ることができるようになるということだろう。
国内のパイプラインの使用料でシリアも潤うし、一石二鳥だろうと思う。
アサシンクリードや弥助の問題でいろいろとすったもんだしたけれども、その背景にはアメリカ黒人の「民族主義なき人種主義」があるという指摘があり、それはつまり自分たちのルーツに関わる情報がないから民族主義を構築できないという悲しさがある、という指摘を見て、なるほどなあと思った。
ただ、アレックス・ヘイリーの「ルーツ」のように、自分の祖先の出身地を訪ねていくことのできる人というのはまず居ないのだから、それはもう仕方のないことなので「アメリカ黒人」という新しい民族を意識して新しくエスニシティを構築していくしかないのではないかと思った。彼らはアフリカに居続けた黒人とは全然違う文化背景を持っているわけで、それはブラジルに渡った日系人と同じだから、日本文化そのものもルーツとは考えられても自分たちの文化であるという意識は持ちにくいだろう。
まあこれは他の民族についてどういうこうことでもないということではあるのだが、それによって日本人の民族性や歴史を損壊しようとしてくるなら防衛せざるを得ないわけで、まあ自分たちの文化は自分たちのわかる範囲の歴史で作ってもらうしかない、というしかないかなとは思う。
まあこういうのはジャマイカのラスタファリ運動、エチオピアの皇帝・ハイレ・セラシエを崇拝した運動と同じで、崇拝された方が動揺する、みたいなことになったりするなと思う。ブラジルなどではどうなっているのか、こういう古い民族文化と切り離された人々がどうやって自分たちのアイデンティティを形成するのかというのは全く古くて新しい問題として残っているなと思う。
移民政策を賛美し推進する人たちがいるけれども、人間というものはそんな簡単に自分たちのルーツやアイデンティティを捨てられるものではないという根本的なところを見落としているのではないかという気はする。
欧米ユダヤ人の祖先がパレスチナ由来なのか、それともハザール人由来なのかという古くて新しい問題も、結局はアイデンティティ問題である、ということとも重なることではある。