「ふつうの軽音部」:「公式」との「解釈不一致」を恐れるカプ厨の人々/マンガのテーマ性についてもっと語るべき/シリア反体制派は「ダマスカスへ」/韓国の民主主義の成熟
12月8日(日)晴れてきた
昨日は午後昔の友人が訪ねてきて少し話をしたのだが、「めんどくさいタイプの人たち」の話になって盛り上がりかけたところで人が来て中断。彼は帰ったのだが、まあタイミング的にそのくらいでやめておいてよかったような気もする。夜はゆっくりして9時ごろには寝て、目が覚めたら3時だったのだが用を足してから寝床に戻ってしばらくうとうとして、4時過ぎには起きた。雪の予報が出ていたからスタッドレスを履いている軽の方を持ってきて乗っていたのだが、ガソリンがないので朝入れに行った。エネオスのアプリを見たら7円引きのクーポンが出ていることに気づき、なるべく見ておいた方がいいかなと思う。普段も5円引きのクーポンを使っているので30リットル入れても60円しか違わないのだが、ガソリンはほぼ毎週入れにいくのでちりつもでもあるなとも思う。
朝ネットを見ていたらインドにいる友人から電話が来て、出たら間違ってかけたとのことだったが、チャットGPTで面白いことがやれているという話をしていたので、しばらく話した。まあ面白かったが、コンテンツの収益化につながる話だったのでうまくいけばいいなと思う。まあ自分の方もそういうことを考えないといけない感じでもあるのだけど。
朝食を食べて、その後ずっとなんとなくネットを見てしまい、気がつくともうお昼の心配をしないといけない時間になっていて、休みの日の朝というのは本当に時間が溶けるなと思う。しかしその間にも書くテーマはいろいろと増えていて、とりあえずあげてみると、
1 「ふつうの軽音部」48話「問いを抱える」。考えてみると4巻のラストが39話で、単行本は9話収録だから今回が5巻のラスト。1月4日(土曜日!)に5巻発売だから5巻読んだら3話分だけ遡って読めば続きが読めるわけで、それならジャンプラで無料で読めるから新規読者にも優しい。いや書きたいのはそういうことではないのだが。
2 シリア情勢。HTSはホムスを制圧し、ダマスカスに接近し、もう包囲している状態になっていると。HTSでない地元の反政府勢力も放棄して南側から包囲に加わっているらしく、また要人が乗った飛行機が次々に出国し、ロシアも艦艇を租借港から出港させているようで、もうダマスカスの陥落も時間の問題ということらしい。
ストリンドベリの戯曲に「ダマスカスへ」というのがあり、これはパウロの回心になぞらえた自分の精神遍歴の話だったように記憶しているが、全ての反政府勢力が「ダマスカスへ」向かっているのはある意味高揚するものがあるなとは思う。
ただ、アサド政権が倒れてもその後民主的で安定した政権ができるかは分からないわけで、特にイスラエルはどういう政権ができるかを警戒しているだろうと思う。個人的にはトルコの影響力が強まるのが安定には必要だとは思うが、そうなると東部を支配するクルド人勢力とそれを支援するアメリカとの兼ね合いが1番の問題になるわけで、その辺りも気になるところではある。
トランプもいち早く声明を出してアサド政権の崩壊とロシアの撤退は歓迎しているが、アメリカが介入することには否定的な意見を述べている。この辺りの駆け引きも難しいところではある。
3 韓国情勢。尹大統領が戒厳令を出して6時間後に引っ込めたことで野党は弾劾決議をしようとしたが、与党が一斉に議場から退席して決議は廃案になったとのこと。民主主義は守られたという感じだが、情勢は油断を許さない。国会前に数万人の大統領辞職を求めるデモが起こっているとのことだったが、一方で大統領支持のデモもあるようなので、一気に極端から極端に走る韓国政治が続いていた中でも冷静に大統領を支持しようという人がいることは、良いことだなと思った。こういうのを民主主義の成熟というのだろうと思った。
4 Twitterのトレンドを見て気づいたが、今日は12月8日、つまり日米開戦の日。1941年、つまり83年前の今日はすでにマレー半島では作戦が始まっていたが、本格的に攻勢に出たのは今日で、対米英宣戦布告も今日ということになる。最近になってもマニラ攻防戦について調べたり「昭和天皇拝謁記」を読んだり、戦中戦後について新たに知ったことは多い。日米戦争というのはある意味今日の東アジア情勢の原点でもある感じはするから、その辺についても考えてみたいというのはある。
という具合に、どれも結構重いテーマではある。いろいろ考えたが、とりあえず「ふつうの軽音部」の感想について書いてみようと思う。
「ふつうの軽音部」5巻の前半は文化祭の日の後夜祭直前のエピソードと後夜祭のたまき先輩達のライブ、そしてそれに感動した鳩野が「後夜祭の大トリで歌う」ことを目標にする、という熱い展開になるのだが、46話からは3年生引退後の新しい軽音部のスタートを、前途多難ぽく描いていて、48話はその中で次のライブであるハロウィンライブに向けて、文化祭の演奏で鳩野を認めた鷹見が鳩野に「ハロウィンライブでの勝負」を持ちかけてくる、という予想の斜め上の展開になっている。
鳩野が異常に鷹見の煽りに弱く、「常識的に考えたら意味ないよな」という鷹見の発言にブチ切れて「やってやらあ!」になるのが可笑しい。人気でも演奏技術でも誰がみても上のプロトコルの鷹見が鳩野をライバル視しているのが面白く、ジャンプ漫画らしい。「常識的」であることが侮辱になるという価値観を鳩野は持っていることが明らかにされるわけで、ロックだよなあと思う。
はーとぶれいくのバンド会議ではライブでの演奏に向けて練習曲を決める話になり、彩目が「ジターバグは自分が提案したから後の三人が一曲ずつ出そう」という話になって、それぞれがどんな曲を出してくるかが楽しみ、という感じなのだけど、ハロウィンライブはコスプレでやることになっているので桃がノリノリになっているのも面白い。この翌日に桃と喧嘩別れした舞加と仲直りをする話もあるはずなので、その辺に彼女も加わってくると面白いと思うのだが、どうなるか。
高みの提唱した勝負の話をしているときに鳩野がなぜ受けたかを話すのだけど、「後夜祭の大トリで演奏したい」という鳩野の輝く笑顔がとてもいい。
本当にこの主人公はここぞというときに人の心を動かす力があって、はーとぶれいくの三人も彼女の決意に応えてそれぞれが高揚した気持ちを語る場面がとてもよかった。
一方プロトコル組は最初から負けることは考えていない反応で、鷹見以外の三人が三様の反応をしているのも面白いのだが、鷹見の内面にあるものが少しずつ溢れ出していて、そういう演出もまた面白いなと思った。
前話で語られた「パート練習」の話とかは全然展開せず、バンド代表者会議で揉めた内容についても今回は語られてなくて、わざと触れないことでちょうどいいところで話を出してくるのがこの作者さんはうまいから、次週以降の展開にもさらに期待したいと思う。
この作品にはアセクシュアルあるいはアロマンティックと思われる内田桃というキャラとレズビアンと思われる新田たまき(たまき先輩)というキャラの二人の性的少数者が出てきていてその辺で話題になることもあるのだが、アロマンティック(恋愛感情なし)とアセクシュアル(性的感情なし)の違いや両方ある人もあるみたいだということを少し調べていて知った。
しかし、この辺突き詰めてくと結構面倒なことになっていくかもという気もする。ホモセクシュアルもそうだが、この辺はっきりしなくても、従来の両性の概念に自分を適当に当てはめて、それに順応して来た人は多い気がする。その辺の僅かな違和感みたいなものを重視した方がいいのか、無視してしまえればその方がいいのか、というのは難しいなと思う。無視した方が幸せという人も多い気がする。その辺をトランスジェンダーの運動家が強調しすぎるのも、やや危ないという気は常にしている。この漫画もそういう勢力に利用されないといいなということは思っている。
あと、ジャンプラの感想欄などを読んでいてよく出てくる意見として、鷹見と鳩野が絡むたびに「第1話で「3年間いい感じ(つまり恋人関係)にならなかった」と書かれているから安心して読める」という意見が書かれていて、最初はそういうものかなと思っていたがあまりによく目にするので何か意味があるのだろうと思って考えたのだけど、これはつまり「作中のカップル関係を気にする人たち」(いわゆるカプ厨)にとって「公式」によって自分たちの妄想が否定されること、つまり「公式との解釈の不一致」を異常に恐れている人たちがたくさんいるということなのではないか、と思った。
【推しの子】のエンドを見ていてもアクかな派・アクあか派・アクルビ派の三つ巴状況が続いていたのに結局誰とも結ばれることなくアクアが死んでしまったことで全カプ厨が発狂状態になって「公式」やTwitterに憤激をぶつけていたのは記憶に新しい。
そういう意味で言えば「ふつうの軽音部」の作劇法は最初から予防線を適当に張ることによって作者の意図しない読者の暴発を防げる(テロみたいだな)という利点はあるんだなと思った。まあ韓国やシリアに比べたら平和な話だが、それだけ日本のマンガ文化も成熟しているということの一つの証左かもしれない。(そんな大袈裟なものか)
最近実際フィクションはマンガばかり読んでいて小説はあまり読まず映画もアニメも見ていない感じなのだが、実際のところマンガが一番面白いと感じられるので仕方ないんだよなとも思う。
そしてマンガのテーマ性というものについては今まであえて考えてこなかった、それはそういうふうに考えることで「無心で楽しめていたマンガ作品」を無心では楽しめなくなることを危惧していたということが大きいのだけれども、マンガがこれだけ巨大なコンテンツになり、また一方で表現を弾圧しようという圧力が高まってきていることを考えると、ちゃんとそのテーマ性、つまり「作品としての文学方面における価値」についてももっと考え、もっと語っていくべきではないかと思うようになってきた、ということもある。
特にこのところ書いているヒロアカ=「僕のヒーローアカデミア」については、「純粋な面白さ」ももちろんだけど、主人公たちの「成長」や「友情」といった従来の少年マンガで表現されてきたテーマ性だけでなく「教育」という観点もその一つとして重視して語られるべきだと感じたことも大きい。
「ふつうの軽音部」の原作者のクワハリさんもマンガはうまくは書けないけど書いてみたい、ということからジャンプルーキーで連載を始めたことによって注目され、作画の出口さんがついたことによってこれだけの成功に至ったわけで、そういう意味では「誰でも描ける」可能性が開かれてきたなと思う。もちろん従来の通り小説や音楽にも表現の可能性は大きいし、実際「ふつうの軽音部」も音楽の詞や曲と相まってブレイクした作品ではあり、そこに新しいマンガの可能性を見出したところが功績ということもあるので、そういうことも積極的に評価してマンガ文化を盛り上げていくことが、日本人の精神文化の深まりにも意味のあることだと思ったりもするのだった。