神武創業に帰れという明治維新の目標
1月20日(金)晴れ
昨日は久しぶりに時間があっていろいろできるはずだったのだがそういう時に限ってよく眠れなかったり体調が悪かったりする、というパターンにハマっていた。周辺でもいろいろすったもんだがあったりはしたのだが、全体で見たらまあよくもないが悪くもない、という感じになったかなと思う。人生はいろいろだ。
こちらのnoteはともかく、Twitterで神武天皇に関するツイートをしたら結構反応があったのでへえっと思っているのだが、保守思想における神武天皇の位置、というのは考えてみたいテーマではある。私自身にとっては「伝説の初代天皇!」という位置付けがあるけれども、どうもこのイメージはマンガとかラノベとかそういうものと相性がいい気がする。神武東征は何作かすでにマンガ化されているとは思うのだが、ジャンプマンガくらいのノリとテンションでマンガ化されると一挙にイメージが膨らむかなという気はする。
大和政権は明らかに機内に根拠のある政権なのに、なぜ高千穂=日向という遠隔地から大和に乗り込んだ、いわば征服王的な描き出し方をしたのかというのももう一つよくわからない。天孫降臨の前に出雲の神々に国譲りを強いたのに降臨するのは日向というのも何故なのかという感じだし、おそらくこのことは知らないだけで国学者の間の議論などもあるのだろうなと思う。
神武天皇が政治的な意味合いを持つようになったのはTwitterにも書いたが幕末の玉松操以来ということを少し読んだ「神武天皇論」で平泉澄が引用されて書かれていたのだが、神武創業という実態のわからないものを国の礎とすることによって明治維新を根本的な国家改造として行うことが可能になったということはあるのだろうと思う。玉松操自身は岩倉の謀臣として活躍したものの維新以降は政府の西欧化路線に反発して致仕し、京都で亡くなったという。
王政復古の意義というのは天皇が親政していた時代を理想とするわけだから最初は建武の新政の戻すなどの理念もあったようだが後醍醐天皇にしろ彼が理想にした醍醐・村上天皇の治世にしろ律令国家の形式をとっていたわけだからそこへの復古が現実的ではないことは確かだったわけで、欧米の制度を取り入れるために敢えて実態不明だが大義名分はしっかりと立つ「神武創業に帰れ」という発想を採用したことは結果的に好手だったと思う。ただそれは国学者や神道家にとっては「こんなはずではなかった」という失望を伴うものではあったということなのだと思うけれども。
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