思想を「野放しにしない」ことの大切さ

8月1日(火)晴れ

今日から8月。旧暦の八月一日は八朔、徳川家康が江戸に入府した日とされ、武家の式日の一つだったわけだが、旧暦の8月は中秋なので今の八月とはイメージが違う。連日の猛暑、日・月と東京に帰ったが、あまりに暑くて適応が難しかった。日曜日はそれでも帰宅後神保町に出かけたが、昨日は結局1日家の中にいてエアコンの空気の中でマンガを読み返して1日を過ごした。休まったことは休まったのだが、1日冷房の中にいるというのがやはり実家のほうにいるとないことなので、どうもその影響でいまだに全体にボーッとしている。

夕方家を出てバスで駅に出て東西線で東京駅まで行き、切符を取った後銀行を探したが、すでに手数料が上がる時間になっていたので引き出すのはやめてオアゾ地下のセブン銀行のATMで手持ちの金でモバイルSuicaをチャージした。

丸善3階に行って山形和美「チェスタトン」(清水書院、人と思想172、2000)を買い、4階のカフェでケーキを食べて、新宿に出て8時の特急で帰郷。10時過ぎに地元の駅から職場の駐車場まで歩き車で帰ったのだが、なんだかボーッとしてて慎重に運転して帰った。


昨日読んでたのは「Landreaall」なのだが、17巻以降は少し重複して持っているので実家の方にもあるのだけど、それ以前は東京に置いてあるので最初の方を読み返した感じ。ランドリではクレッサール=革命の真実編が一番すごいと思うのだが、昨日は4巻あたりからホーリーネームのあたり、ウルファネア、馬上槍試合というところを読んだ。スピンドル編を何度も読んだ時期もあるのだが、連載ではダンジョン編もほぼ終わりに近づいているのでダンジョン編全体もまたまとめて読もうと思う。


チェスタトン「正統とは何か」第3章「思想の自殺」に入ったところ。「悪徳は野放しになると害悪を生むが、美徳も野放しになると害悪を生む」というところ。これは本来解放の思想であったはずのフェミニズムが各所で問題を起こしているようなことと同じだろう。リベラルにしろ社会主義にしろ、元々は気高い理想から生まれたもののはずなのに、実際にはさまざまな社会的軋轢を生んでいて、それが何に由来するのか理解されていない感じなのだが、問題は美徳だからと言って「野放しにされている」ということなのだろうと思う。

チェスタトンがここで批判しているのは博愛主義者とゾラ、つまり自然主義の作家なのだが、博愛主義者は愛を主張しすぎるあまりに神はいらないと言い出し、ゾラは「真実・正義」を追求するあまりに「救い」を無視している、というわけである。「思想の暴走」という言い方は現代でもよくするが、「美徳を野放しにする」という言い方は面白いなと思う。つまり悪徳でも美徳でも行き過ぎないようにセーブしている主体がいるという感じの言い方で、それが常識なり伝統なりであるということなのだろう。

現代においても思想の暴走というのは頻繁に見られることなので、それを「野放しにしない」、というスタンスは重要になってくるなと思った。これは多分、「自由と放縦の違い」みたいなことと同じで、謙虚さのない自由は放縦になる、「自由」とは「やりたい放題」ではない、というようなことなのだと思う。

謙虚さのない人間は、やはり怪物だということなのだと思う。


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kous37
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