「北条重時」を読んでいる/「絵を見る技術」は面白そう/うちの庭に鹿が来た
8月31日(水)曇り
日曜日に2冊本を買った。森幸夫「北条重時」(吉川弘文館、2009)と秋田麻早子「絵を見る技術 名画の構造を読み解く」(朝日出版社、2019)。
「北条重時」は北条義時の三男・重時(1198-1261)について、上洛以前・六波羅探題時代・連署時代・出家後と四つの時期に分けて伝記として書かれている。今読んでいるのは六波羅時代の四代将軍藤原頼経の上洛時(1238)の様子についてで、ちょうど重時が40歳、六波羅で手腕を発揮している時代で、読んでいて面白い。この上洛は頼経の「里帰り」みたいなもの、くらいにしかとらえていなかったが、三代執権泰時以下、鎌倉留守居の二階堂行盛(「鎌倉殿の13人」の二階堂行政の孫)以外の評定衆も全て頼経に供奉して上京し、加えて鎮西奉行である少弐祐能も在京しているので、かなり重要なイベントであったのを知った。
要は、「承久の乱後政治の実権を握った鎌倉幕府が、凋落しつつある朝廷を、警察面や経済面などでいかに支え、政治的にリードしていくのか、朝廷や京都の実情を把握した上で、その方針を固めることにあったと考えられる」というわけだ。
承久の乱の際に院側についた御家人たちは在京していた武士が多かったため、乱後は幕府=六波羅探題側の監視のもと院や朝廷が直接に武士を指揮することができなくなり、六波羅探題の重時らも積極的には治安を取り締まらなかったので、治安面での問題は大きく、重時が鎌倉に下向した際などは藤原定家が「明月記」に治安面での不安を書いていたりする状況だったようだ。
京都大番役などの役割として院や朝廷、摂関家を守護した武士たちはいたはずだが、彼らも治安的な役割を果たすところまでは活動せず、南都北嶺の僧兵たちの強訴などに対しては重時が強い態度で臨んで鎮めていたりする記述は面白かったが、積極的に群盗を取り締まったりはしていなかったようだ。だからこの機会に「篝屋」が設置され、その取り締まりの体制が整えられたということのようだ。
重時の活動の開始は1219年の後の四代将軍になる藤原三寅の鎌倉下向の際に供奉の先陣の一人を務めた時で、21歳ということになる。三寅は義時の屋敷内に御所が造営されたが手狭だったため、小侍所が御家人たちの出仕場所として作られ、重時はその別当(小侍所別当)となった。若くして三男である重時が重職煮付けられたのは性格や能力が評価されてのことだろうと想像できる。姫の前所生の同母兄・朝時を差し置いての重職だが、逆に1221年の承久の乱の時には重時は出征することなく、朝時は北陸道方面の総大将として活躍したわけで、兄弟で個性があるのが面白いと思う。
しかし1223年には朝時よりも早く従五位下・駿河守となっていて、やはり義時の評価は重時に対しての方が高かったのだろうなと思う。義時遺領相続の際には信濃守護を継承したようだが、その他の所領諸式についてはよくわからないということで、重時のような存在でもそういうところがわからないというのも不思議だが、考えてみると重時はいまだに幼名もわからないわけで、知られていることに濃淡があるのが歴史の面白さみたいなものなのだろうなと思った。
京都守護=六波羅探題就任まで重時は小侍所別当、つまりは将軍頼経の近習を務めたという。
1230年に重時は執権泰時の嫡子・時氏に代わって六波羅探題北方となり上洛。この時期は「寛喜の大飢饉」で社会が大混乱していた時期で、鎌倉でも大変ではあったが京都では群盗が横行していたが、幕府は承久の乱の際に京都警固の御家人たちが上皇側についたことから、敢えて洛中警護を積極的には行わせず、重時もその方針を守ったのだという。逆に言えば幕府の武力への朝廷の依存を極限にまで高めたということなのだろうなと思う。まあえぐいと言えばえぐい。しかし在京御家人の取り締まりには積極的で、御家人たちに対しては重時の威令は届いていたということのようだ。
石清水八幡宮と興福寺の争いに六波羅探題が出兵したこと、従わない興福寺に対して大和国守護をおき衆徒の荘園を没収して地頭を置き、奈良へ通じる道路を封鎖して糧道を断ったとか、果断な対処をしているのが面白いなと思った。また、上皇の京都への帰還に関しても厳しい態度をって許さなかったというのも面白い。九条道家をはじめとする公家たちは上皇を島流しにしたから祟りが起こっていると解釈していたというのもなるほどと思った。
一方で重時の和歌が「新勅撰和歌集」に二首採られたというのも慶事として記述されていて、なるほどと思った。
年ごとに見つつふる木のさくらばな わが世ののちはたれかおしまん
技巧的な歌ではないからどういう経緯で採用されたのかはよくわからないが、武士の歌というのはこういうものだったのだろうか。
書き出したら印象に残ったところはたくさんあるが、魅力的な人物だなと改めて思った。
「絵を見る技術」の方は、基本的には私は今までほとんど感覚的に絵を見ていて好きとか嫌いとか言っていたのだけど、アカデミックな絵の見方みたいなものをもう少し知っていた方が味方の幅が広がるのではないかと「ブルーピリオド」を読んで思っていたので、そのような助けになる本ではないかと思って買ってみたのだけど、良い本だと思った。まだ最初の方しか読んでいないが、また感想を書きたいと思う。
暑かった夏も少しずつ過ぎ去っている。朝起きて裏庭に面した廊下に出る障子を開けたら、庭に鹿がいた。網戸越しに写真を撮ったが、サッシを開けたら流石に逃げていった。着替えて裏庭の草を少し刈ろうと思い、庭の傾斜を上っていったらまだ鹿がいて、ボキボキと音を立てながら逃げていったので、庭木が時々枝が折れているのはこういう獣のせいかもしれないと思った。
奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の、というが、古代に奥山に住んでいた鹿が人里で草を食んでいるというのも味わい深いというかなんというか。
昨日はゆっくり休んで態勢を立て直そうと思っていたのだが、スケジュールを確認すると母を膝の治療に整形外科に連れて行けるのが昨日しかないとわかったので医者行きに変更し、その他のことはできることだけやった。今日医者に連れていく必要がなくなったので今朝は時間があるのだが、ただ昨日やれなかったことが溜まっているのでそれを片付けるのにも時間が必要だ。さまざまなことにワンオペというのは本当に時間がないので、もう一人動ける人間がいたらなと思うことは多い。
人と人の関係は誠実であるに越したことはないと思うのだが、ネットを見ていても殺伐としていて変に誠実に振る舞いすぎるとよくないのではないかと思ってしまうが、ある意味人に対して誠実に振る舞うには自分の強さが必要なわけで、誠実に対して誠実で返してくれる人だけと付き合えればいいけれどもそうではないから、そういう時には強い姿勢で対処する必要があり、守りの強さと交渉の強さは誠実に生きるためにも必須条件だなと思う。