「日本における保守とは何か」日本人の死生観・自然観と日本的プラグマティズム/「デイヴィッド・ヒューム」懐疑主義と無神論と保守思想家の心の闇
2月21日(火)晴れ
朝は少し冷え込んでマイナス5度くらいまで下がったが、夜の間に少し雪が降ったようだ。それでも粉雪っぽくて車の雪はすぐに箒で払えた。道の雪は一応竹箒で履いておいたけど、掃かなくても気温がプラスに上がったら溶けそうな感じ。ただ今日の最高気温の予想はプラス1度なので、どこまで溶けるかは様子を見ないといけない。少し強めの寒波が来ているという感じなのだろう。
ふと日付を見たらもう2月も21日か。なんだか時の経つのは早い。2月は逃げるというけれども、なかなか方針を決められないまま日が経ってしまった。ここのところいろいろ読んで取り組んでいく方向が見えるかなと思ったのだが、もう少し検討しないといけない感じだなと思う。
昨日は昼前に松本に出かけ、丸善でいろいろ本を見たのだが、結局ニコラス・フィリップソン「デイヴィッド・ヒューム 哲学から歴史へ」(白水社、2016)を買い、バスセンターの地下のデシリアで食品など買って松本城の向こう側の喫茶室松風庵に行って和菓子と煎茶を楽しみながら少し読んだ。
ヒュームは懐疑主義で無神論者。「人性論」で現在は知られるが当時は全く売れず、歴史に取り組むようになってから書いた「イングランド史」で有名になったのだが、現代ではこちらの方は全く顧みられなくなっていて、「人性論」を書いた懐疑主義の哲学者ということで知られているという人物。いろいろと面白いのだが、ヒュームという人がイングランドとスコットランドが合同して「大ブリテン王国」になった直後にスコットランドのイングランド国境近くで生まれ育った人で、若いうちに哲学的真理を発見していたのだが、著作に取り組むのもそれが評価されないのもかなり苦しんだ人らしく、歴史が売れるようになったら今度はその無神論的記述が攻撃の的になり、またロンドンではスコットランド人嫌いの雰囲気のせいでかなり大変だったらしく、晩年はエディンバラに落ち着いた、ということらしい。フランスに行ってルソーと知り合い一緒に帰国するがルソーがヒュームに疑念を持ち出して喧嘩別れしたとか、18世紀前半のイングランド史と西欧史の中で動いていることから興味深い人物であると思った。
ヒュームを少し読む気になったのは、現代保守思想家のオークショットのWikipediaでの説明に
「伝統的なキリスト教価値観を「保守」する観点から唱えたバークら旧来の保守主義の思想家と異なり、オークショットは懐疑主義の立場から「合理主義」による急激な社会改革(ソーシャルエンジニアリング)や革命(レヴォリューション)を批判した。」
とあったからで、少し懐疑主義を勉強してみようと思ったことからなのだが、17世紀のデカルトやスピノザの合理主義と18世紀のヒュームの懐疑主義の流れというのは現代思想にも大きく関係してくるのだろうなと思うのだが、今突っ込んでやるべきことなのかどうかは少し迷った。
我が国の保守思想家として名前が上がってくる人に三島由紀夫や江藤淳や西部邁がいるけれども、彼らが皆自殺しているのはそういう懐疑主義的無神論みたいなものと関係があるのだろうかと思ったりもする。三島は明治だが石原慎太郎も含めて後の3人は教科書墨塗り世代であり、石原さんも晩年は曽野綾子さんとの対談で無神論的な感慨を言っていたのを読んだ覚えもあって、あの世代の虚無みたいなものがそこにあるのかもしれないなあとも思う。
先日買った「正論」の佐伯啓思・川久保剛「日本における保守とは何か」を読んでいても、「保守思想の魅力は人間論から出発することで、人間は矛盾を内包した存在であるのにそれを固定的に論じるリベラルデモクラシーは失敗する、多方向から考えられるのが保守思想の魅力だ、というようなことを言っていて、それはそうだと思うが、最近は右派思想もものごとを一元的に割り切って論じるようになっていて、硬直化しているという指摘があった。
リベラルは問題点を論じるときに一点突破的に集中して論じるが、それがうまくいかないとこだわりすぎて個人攻撃になってしまう。保守の側は問題が全部そこに集約されるような論じ方はせず、特定の人間を悪様に言わないところに原論の貴族主義のようなもの、品格があるのだから、一元的な論じ方をすれば保守思想の魅力は損なわれる、という指摘はなるほどと思うところはあった。
現代文明、リベラルデモクラシーというのはある種のニヒリズムであるという指摘があって、これはつまり良心とか道徳とかの内面の問題ではなく権利であるとか行為であるとかの外面的な問題になっていると。まあ今ではフェミニズムなどは差別を蔑視と言い換えて内面的・倫理的な悪として相手を攻撃しようとしているのでニヒリズムも極まっているというか良心を攻撃対象としてしか見ていない。
それはともかく、日本の保守思想家は内面を支える精神作用として、雅や和歌や、本居宣長には行くにしても、日本の伝統から保守の精神を汲み出すのは難しいという指摘はその通りだと思う。西部邁さんは保守の精神としてイギリス保守主義、経験論的な人間理解から社会について規範的に論じるという方法をとっていたが、この方法を取るとイギリスの保守主義と日本の伝統というものがうまく接続できないという難点があるということを佐伯さんは言っていて、これは私もその通りだと思い、どういうふうに保守思想を組み立てたらいいのかということは結論が出ていない状態になっていたし、それでもとりあえずやってみようと思ってヒュームについての本を読み始めたけど、やはり何か違うな、という感じに陥ってしまっている。
佐伯さんは西田幾多郎をはじめとする京都学派の哲学に注目しているといい、それは西田の哲学が西欧の「存在の哲学」と違って「無の哲学」であるという。物事は全て実体を持たないという意味で本質は無であり、また万事は無から始まり無に帰るので無が全ての受け皿であるともいう。
これは「色即是空、空即是色」ということなのかなと思ったが、私自身仏教哲学と西田哲学の本質的な違いとかあまりよくわからないので、その辺りはそういうふうに読んだとだけ書いておこうと思う。
日本人の伝統的な宗教観、自然観、死生観の変容については、佐伯さんは楽観的で、こうした自然観や死生観は現代でも残っている、と見る。ある種の和の精神によって自生的秩序を作る力を日本人は持っていて、例えばコロナを自発的に自粛することである程度抑えられたのは日本人のそうした知恵だと見ている。
しかしそういうものは本当の意味で理解はされておらず、特に合理主義や近代主義に染まった官僚や学者、メディアや政治家、財界などのトップエリートたちは全く理解しておらず、日本の良さをダメにしているという。彼らは一般庶民の感覚からずいぶん離れていて、それが日本をダメにしてきたが、やがて「常識」に帰る時が来たら新しい生き方も出てくるのではないかという。
この辺りのところはなかなか難しいところで、常識みたいなものだけでこの論理的に複雑化されてしまった現代に対処できるかといえばそうはいかないだろうと思うし、財務省エリートの側が「庶民の感覚」に漬け込んで「一人当たりの国の借金はこんなに莫大!」みたいなキャンペーンをやったりするわけだから、そうじゃないんだと正す必要はある。
日本人はもともと思想に関心は少なくプラグマティックであり、結果的にうまくいけばそれでいいという楽天性はあるし、そういう日本人の強さやしたたかさみたいなものをもう少し言語化して日本の自然観や死生観と結びつけて説明すれば良いのだが知識人はそれを怠っている、というのもまあそうなんだろうと思うけれども、司馬遼太郎・梅原猛・上山春平などの世代、また渡部昇一などの世代が結構その辺の言語化は試みていると思うのだが、日本の没落などということばかりがかまびすしく語られ、日本の特徴や良いところを伝えようとすると「日本スゴイ!」だ、などと揶揄されるような状況にあると、そういうものを客観的に見るのも難しいという面もあるよなと思う。
しかしまあ、イギリス哲学から日本の保守主義の可能性を探るという方向性を考えるよりは、「日本にあるもの」「日本にかつてあり、全くなくなったとも言い切れないもの」から日本の保守主義について考えた方がまだ実りのあるものを得られる可能性はあるのかもしれないとも思う。
そういう意味では最近読んだ頼山陽の思想は日本的プラグマティズムの言語化として汲むべきところは大いにあるなと改めて思ったりする。また日本的修養主義など、大衆が誰にも言われなくても自らを高めようと努力する文化というのも、そうしたものとして興味深いところだと思う。
まだ試行錯誤は必要なようだなと、改めて道の遠さを思うのだが、見るべきものを見ていきたいなと思う。