「2.5次元の誘惑(リリサ)」自分の気持ちをxと置いてみるということ/自分がどんなものからどう影響されてきたか/2.26事件の際どい綱渡り/若者はなぜフェミニズムが嫌いか

4月27日(土)曇り

朝から天気がはっきりしない。昨日は少し仕事が忙しく、ちょっと疲れた感じはある。夜帰ってきて食事をし、電話をかけると言っていた友達にかけたらもう眠くて無理という状態になっていたので、電話にとっておいた元気が余ってしまってちょっとスマホゲームをやって寝たらどうも眠りが浅くなった。なかなか調整が難しい。

昨日は午前中母を病院に連れて行き、帰りにツタヤに回ってコミックゼロサムを買って帰る。読んでいる「Landreaall」も「神作家紫式部のありえない日々」も面白かった。仕事は決算書類を受け取ったりあれこれあって、夜も少し遅めになった。


若者はなぜフェミニズムが嫌いか、という記事を読んでいて、その記事中に「男性特権」だの「男性の加害性」だのの単語が出てきて、まさにそういうところが嫌われているのに理解してないな、と思った。「男性特権」などという言葉は「在日特権」のような「ネトウヨ」の用語と変わらないし、「男性の加害性」も一方的すぎて人間なら加害性のある女性もいるし加害性のある男性もいるという当然のところをなぜか飛び越してしまっているのは「〇〇人は怖い」というヘイト的なレイシズムと何も変わるところがないわけで、そのようなところを乗り越えてこない限りフェミニズムが若者に受け入れられることはないと思う。この辺りの差別性はもっと明らかにされていくべきではないかと思う。


とあるきっかけがあり、二・二六事件の概要をじっくりWikipediaで読みこんでしまったのだが、昭和天皇が憤激してはっきり反乱軍の討伐を命じたことはともかく岡田首相が生きていたという幸運な偶然が場面転換の大きな要因になったというのはいろいろ考えさせられた。もし岡田首相が死んでいたら必然的に内閣総辞職だからそこで激しい駆け引きが行われた可能性があったわけで、本当に鎮圧の方向に迎えたのかということを考えてぞっとした。

天皇の意思だけでは反乱軍の討伐にすぐには動けず、陸軍省を反乱軍に占拠された責任も誰も取らなかったというのはかなり酷い状態で、明治憲法体制がいかに機能不全に陥っていたかということだなと思う。

陸軍の粛軍が不十分に終わったこと、特に統制派がこの機を最大限に生かして陸軍を牛耳ったことが最悪の結果を招いたが、要は常識的な軍人が絶対的に不足していたことが大きかったのだろうなという気がする。エリート意識と世間からの蔑視の両方で当時の軍人の精神状態はやはりあまりよくなかったのではないかという感じはある。

二・二六事件当時の陸相は中立派の川島義之で反乱軍に同情的な皇道派に引っ張られそうになったが、昭和天皇に直接討伐の意思表示をされて受け入れざるを得なくなったことと参謀次長(参謀総長は閑院宮)が統制派の杉山元で天皇の意思を奉戴することが統制派が皇道派を追い落とすチャンスと認識して強硬姿勢に出たことが大きかったといえるのだろうな。それでも岡田首相が死んでいたら事態の流動化はまだ続いた可能性があるようには思う。

宮中グループなども討伐に向かうというところまでは良かったが陸軍全体を抑え込むことに失敗したのはすでに満洲事変の「成功」で軍の発言力が相当上がっていたということが大きいのだろうと思う。やはり満洲事変が最大のポイント・オブ・ノーリターンであったということなのだろうと思う。


「自分が訓練されている規律権力(フーコー)」に自覚的であること、という言葉を読んでいろいろと思うところがあった。自分が受けている規律権力、というほどのものがどの程度あるのかはわからないが、今まで生きてきた場面の中で無意識のうちに影響を受けているものはいくつかあって、そういうものは言わば深層心理とか行動様式、生活様式などにまで及んでいることはあるので、自分の好き嫌いに関わらず影響を受けてきたものに対しては一度振り返ってみたほうがいいのではないかと思ったのだった。

言葉を変えて言えば、「自分がどんな倫理を持っているか」ということは「自分がどんな「神」を信仰しているか」ということなので、自覚しておいた方がいいのではないかと思ったということである。

多分このフーコーの言葉はそういうことを言っているのではないかもしれなくて、この言葉を書いた人もむしろ現代のリベラリズムのキメラ性というかそういう部分の批判として言及していたと思うのだけど、それを自分に当てはめて考えてみると結構考えさせられるものがあるな、ということである。私は基本的に保守論者なのだがそれでも昔ながらのしがらみみたいなものはやはり苦手な部分が大きいし、新しいものもかなり好きなので、伝統こそが正しいとか伝統のみがあれば良い、のように思うわけではない。保守になっているのはむしろ左翼やリベラルの方がどう考えてもおかしいという非・常識性を感じるからで、積極的な保守反動というわけでもないのが面倒なところである。

自分は影響を受けてきたものから逃れようと思って今を選択しているという面では、ある意味一般のリベラルや左翼の人たちと似ているところはあるのだけど、影響を受けてきたものが自分にどんな影響を与えているのかを検証するということはしておきたいなと思ったのだった。その方法についてはまだ思い付いてはいないのだけど。


今日更新のジャンププラス「2.5次元の誘惑(リリサ)」161話「愛のゆくえ」の感想を少し。(まあこの副題がある種内容を暗示しているわけだけど。)

簡単にいうと「最高」だったのだが、まずまゆりが高校生の時初めてエリの手を握った、その気持ちがわからなくて「とりあえずxと置いた」という書き出しが小説のようで最高だった。その後、そのxが何だったのか、の答えを探して彷徨することになるのだけど、その答えが今回出た、ということなわけである。

その展開は読めばすぐわかるので書かないのだけど、まゆりとエリの関係性というのはまゆりの生徒である奥村やリリサにも大きく関係してくる。最近のリリサは前のように奥村に気軽に抱きつく、みたいなムーブがなくなってちょっとさびしいのだが、あの春合宿以来,ある意味大人になったということなんだろうかと思ったりはする。

あの春合宿は「全力の私小説」という感じだったからあの時できた作品を一般に頒布したくない、というのはその点から見たらわからなくはないということは、最近少しずつ思うようになってきた。全力で作ったが故に商業を目指して作ったものでは無くなったので、というか。

あの辺から私にとってはこの作品は手放しで面白がれる作品ではなくなっていて、考えてから同意したりやはりそうは思わないなと思ったりするような作品になってきている。アニメ化直前ということで本当はもっと無邪気に盛り上がれた方が楽しいとは思うのだが、まあ作品との付き合い方がそうなってきているので仕方ないなとは思う。

「忘却バッテリー」もそうだが、アニメ化によって新たな客層が流れ込んでいる感じがして、ジャンププラスのコメント欄も昔からのノリみたいなものだけでなくある種の戸惑いみたいなものがあったりする。この女性同士の愛というのも以前からの読者なら「まゆエリいいよね♡」で済んでしまうのだが、「今女性同士の同性愛を描くことの意味は・・・?」みたいな問いを立ててしまいがちな層もまた流れ込んでいるような気はするし、シンプルにそういうものの重さみたいなものを感じてしまう人もいるんだなと思った。

そういう意味では作品を純粋に楽しんでもらった方がいいと思うのだけど、それに止まらない深さとか熱さとか重さとかがあるからこそのこの作品でもあるので、多様な受け止め方があるのもまあ仕方ないのかなとは思った。

というようなところで。

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kous37
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