「多様性を理解すること」と「受容すること」は違う/「モディ化するインド」はまさに「多様なインド」へのガイドブック/グローバルサウスの時代には世界の多様な右翼思想をもっと知っておくべきではないか
5月23日(木)曇り
昨日は近所で古いガス管交換の工事が始まり、実家に入る狭い道が通行止めにされたり作業場の近辺で工事が行われたりしてだいぶ面倒な感じになっていたのだが、とりあえずなんとか自分のペースでいろいろ出来るように工夫しながらやっていたのだけど、自宅も作業場も使いにくいというのは困ったことで、昨日は早めに家をでて図書館へ行ったりしていた。
「多様性の理解」ということがツイッター上で話題になっていて、それは「多様性を理解するためには年の離れた異性の友人を持つと良い」というアスリートのツイートが炎上し、アカウントが凍結されるなどしたことが原因だったようだ。
自分のことを考えてみると、私は若いころはおばさん受けするタイプだったので、結構おばさんと話はした。向こうが多様性を理解するために私に話しかけてたかどうかは知らないけど。だから若いころから私はおばさんよりも同世代の若い女性の方が理解は難しかった気はする。若い男の方が実はもっと理解しにくい人が多かった気はしなくはないが。
考えてみると、私は若い頃から多様性理解ということには割と無意識に努めていたなと思う。外国に行ったのもそうだし、日本各地を旅行したのもそういうのはあっただろう。イシグロの言う「縦の旅行」はちょっと怖かったが、教員とかやることによって避けられず結果的にいろいろなクラスの子供やその親に出会うことになったりして、特に知りたいわけでもなかったが知らざるを得なくなったことは多い。いろいろな人と付き合うことで世の中にはいろいろな人間がいるということを知るし、世界にはいろいろな文化や考え方があるということも知る。
ただいろいろな考え方がある中で、自分はどういう考え方をとればいいのか、というのはそんなに簡単な問題ではない。これが良いのでは、という考え方というか、周りがなんとなくこれだと言っている感じのものを感じ取る、というようなことはもちろんあったと思う。
ただ、「民主主義が正しい」とか「多数決での決定は全員を拘束する」その元になる「社会契約説」みたいな考え方がなぜ「正しい」のかというのはやはり理解できないというか納得できないところがあった。納得できればそれでも良かったのだが、納得できない以上それに無前提で従うことにも納得できなかった。
これはかなり後になって、民主主義というのは歴史上様々ある政治の仕組みの一つに過ぎないのであり、日本は歴史的経緯において今はそれを採用しているに過ぎない、ということが理解できたことで目から鱗が落ちた感じがあった。
そのあとは民主主義というもの、或いは日本や世界におけるそのあり方についての妥当性みたいなことを考えて、その原点だから、というような理由でフランス革命を研究したり、さまざまな思考の経路を経て、「民主主義的手続きを軽んじない保守主義」みたいなところに自分のスタンスを置くようになった、という感じではある。
多様性、という言葉は最近は使われ過ぎて手垢がついてしまっているけれども、世界が多様であるということは自分にとっては眩しいことだし、いろいろな国に行っていろいろな文化に触れてみたい、というのは若い頃からずっと思っていたことではあった。
ただ多様性の理解と言っても、ただ理解だけなら問題は(あまり)ないのだが、日本においては「理解」という言葉に「受容」というニュアンスがあるのが問題だろうと思う。世界に多様性がるということを理解するのは知的な営みであるが、それを受容するかどうかというのは倫理や政治の問題であって、例えば「世の中に犯罪者がいる」ということは理解できても、「犯罪を受容する」ことは問題があるのと同じであり、我々自身にある我々自身の文化や伝統を踏まえた上で、何をどの程度、どの場面においてどこまで受容するかというのは我々自身が決めていかなければいけないことだろう。
これについては例えば、私が若い頃、「天皇という存在に興味がある」という話をしたら左翼がかった友人たちが「それは取り込まれるから危険だ」みたいなことを言って賛意を示さなかったことなどを思い出す。つまり、彼らにとっては「理解すること=受容すること」みたいな定式が成り立っていて、理解したら受け入れるようになるから天皇というものについて知ろうとすること自体が危険だ、という考えになるのだろうと思う。その時は何を言っているのかあまりよくわからなかったが、どうもそういうことではないかと今は思っている。
世界に存在する多様性を理解していくこと自体は私は好きだし必要なことだと思うのだが、当然ながら世界に存在する多様性というものはポジティブな面だけではなくネガティブな面もある。今週読み始めた「モディ化するインド」などに描かれているインドの「多様性」やインド人民党政府の進める政策などは、我々にはなかなか思いつかない部分もあるという点でまさに「多様性」なのであり、つまりは「世界の奥深さ」であるとも思う。
「多様性理解」を推進する左派系の人たちが、そういうものを「理解」はともかく「受容」しようとしているとは思えないし、中国共産党が推進する民族や宗教の迫害政策などについても「思考停止」や「見ないようにしている」感じがとても強い。
だから彼らのーというかトッドのいう「リベラル寡頭制」の、つまりいわゆる「リベラルエリート」のー推進する「多様性理解」は無前提に性的多様性や民族文化多様性をストレートに「理解=受容」すべき、といったあまり現実的でない、というか問題が起こることが必至のプランが主になっていて、さらには「理解し受け入れる」というだけではなく世界や社会、国家の仕組みを「多様性を根元に据えた仕組みに革命する」ことが目標とされていることが目指されているように思われ、それはつまりは「日本という多様性」を滅ぼそうということになるわけで、全くそうしたスタンスは受け入れられないと思う。
多様性理解のためには年下の異性と友達になること、というのは性的関心という意味を除いても(なかなか除けないとは思うが)意味として分からないわけではない。昔の人もチョベリバとか意味不明の言語を発する異人種を何とか理解したいと思っただろうし志は買いたい気はしなくはない。
そういうもの、特に社会の中心を動かしている中高年男性を様々な面で攻撃するのが正義、みたいなものが「多様性」の名の下に語られているのが現在の状況であって、これは大変良くないと思う。
もともと性的好奇心を丸出しにすることは、若くても年寄りでも男でも女でもみっともないことだ。Twitterなどでそういうツイートをするのは、ある種のウケ狙いの逆張りであって、本気でそういうことを言う人が嫌悪されるのは当然で、特に中高年男性だけが問題なのではない。しかし、「中高年男性はいくら叩いてもOK」みたいな空気の中で、平然とそう言うことが行われているのは本当は「多様性の正義の名を借りたヘイト」に過ぎないわけである。
実際、若い人を理解しようとすること自体は悪くないとは思う、適切なアプローチが取れるなら。気持ち悪いのは「若いヤツを俺はわかっている」「若い子の気持ち、ほんと分る」みたいに勘違いしているおじさんおばさんの方だし、そう言う人たちにたぶらかされてその予備軍になっていく若者たちだろうと思う。そう言う意味で「物わかりのよさそうな顔をする大人はみんな敵」というのは万古不変の真理であり、若者は人を見る目をちゃんと養っていかないといけないと思う。
「モディ化するインド」を読んでの読書メモ続き。
第2期モディ政権は経済政策もあまりうまくいかず、高額紙幣廃止で混乱を招き、中国と対立しながら西側との軋轢が大きくなり、弱体化するロシアは中国へ傾斜を強めるなど、インドを取り巻く状況は厳しくなっているが国内ではモディ人気は高く、説明しにくい状況だと。
「新しいインド」という「大きな物語の演出」は「1000年にわたる外国支配の末にヒンドゥーの国インドが勝ち取った独立」というのが基調トーンで、イギリス支配だけでなくイスラム支配も「外国支配」と主張されているのだと。BJP=Bharatiya Janata Party(インド人民党)のヒンドゥー至上主義史観。植民地支配への反発とイスラム支配への反発が同居しているところが彼らの思想の特徴だろう。イスラム及びイスラム教徒をインドおよびインド人の一部と認めない考え方が強まっているということなのだろうと思う。
ヒンドゥー教にはいろいろな宗派があり、特にヴィシュヌ派とシヴァ派が強いと言われているが、BJPではどちらが強いとかそういうことはあるのだろうかとか、そう言うことも思った。
BJPの歴史観によると、「モディ首相の登場は1000年に及ぶ外国支配と国民会議派の失政に終止符を打つ新しい時代の始まり」なのだと。明治維新的な感じだ。神武創業の昔に帰れみたいな。かなり大きな物語が演出されていると言うことがわかる。
人民党政権の基礎は、独立以来の多宗教の共存とマイノリティの保護を約束した「インド型世俗主義」を否定するヒンドゥー至上主義勢力に置かれている。この政権の下で、国家や社会の「ヒンドゥー化(Hinduization)」政策として、「偉大なヒンドゥー国家の再興」をめざす「ヒンドゥートヴァ政治(Hindutva Politics)」が展開されてきた、と言うのは他のところで読んだがまあそう言うことなのだろう。
あとはモディ首相の個人の履歴とこうした思想の関係なのだが、モディが属するガーンチというジャーティ(カースト)はダリット(不可触民)ではないが下位カーストなのだそうだ。これも調べたがよくわからないのだが、ヴァルナ(四姓)で言えばシュードラということになるのだろうか。
モディは8歳のときからRSS(民族奉仕団)のシャーカー(訓練)に通っていて、かなり熱中していたという。のちにRSSの活動家になる下地は子供のころからあったと。モディは伝統に基づいて若くして幼児婚した妻がいて、その話はググれば出てくるのだが、どう考えたらいいのかよくわからない。離婚はしてないが彼は家や村を飛び出して放浪した後でRSSで活動し、台頭し、ついには首相になった。妻とは45年以上別居だとのことである。
この辺は少し違うことはわかっているが、「もののけ姫」のアシタカが故郷と許嫁を捨てて旅立ったことを思い出した。いずれにしても「伝統的なインドへの回帰・家族の重要性」を叫ぶ一方で自分は故郷も妻も捨てて民族主義的活動に身を投じた矛盾。これは「統一教会から子供を取り返す」運動をしていた大学の先輩が、「もう何年も家に帰ってないから自分だって親から見たら似たようなものなんだよね」と自嘲していたことを思い出す部分があった。
インドでは下位カーストが優遇されすぎていて、公的機関の就職の8割が下位カーストに割り当てられていたりするという。モディもガーンチという「その他指定カースト」の出身で、その枠でなければ政治家になれなかったという人もいるという。選挙のたびに下位カースト優遇が叫ばれ、上位カーストの人はインドでの出世や就職を諦めて海外に出て行ってしまう人が多いのだという。
しかしこの本ではBJPには「インドを上位カーストのものと考えて下位カーストなどを見下す姿勢がある」と言う記述もあり、なかなか理解が難しいものだなと思う。まあ豊臣秀吉のように庶民層から出てきても庶民層を弾圧する政策を取る政治家は珍しくないが、そう言うものともまた違うだろうと思うし。
Twitterを読んでいたら、ブラジルの右翼ポピュリストで一度は大統領になったボルソナーロに影響を与えた人物としてOlavo de Carvalhoという人物に触れられていて、Wikipediaとかで調べてみるとどうも敵対陣営が書いたような記述でケチョンケチョンなのだが、主張の内容自体もいわゆる「白人右翼」みたいなことを言っていてそんなに面白くはないなとは思った。彼に思想的影響を与えた人物としてVoegelinという思想家が出てくるのだが、この人はナチスに終われてアメリカに亡命した人で20世紀の政治的暴力について研究しているのだが、「ナチズムや共産主義のような全体主義運動を生み出したのは、キリスト教の欠陥のあるユートピア的解釈だと非難した」とのことで、これが保守派にとって都合よく解釈されているところがあるらしいのだが、まだあまり詳しくはわからない。
ただ思ったのは、インド人民党もそうだけど各国の右翼思想などはなかなか日本では紹介されないきらいがあるということである。グローバルサウスとか言ってそういう国々と付き合っていく気があるならそういうところも積極的に知っていく必要があると思うのだが、これは言霊思想というか上に書いたように「理解したら受容してしまう」という変な信仰を持つ人が多いのが問題なんだろうと思う。
そういう意味では「モディ化するインド」などの書は貴重なのだと思う。イスラムではムスリム同胞団についてもっと一般書が書かれると良いなと思うし、ブラジルでは今あげたオラヴォ・デ・カルヴァーリョなどについての一般書も出てくると良いと思う。アフリカにおいてはパン・アフリカニズムももっと取り上げられていいと思う。ロシアはプーチン自体が変な思想家になりつつあるけど。白人右翼思想も彼らに内在する論理をこちらに理解しやすいようなものが出てくると良いと思うのだが、まあもともと内容が内容だけにそれこそ理解も難しい部分もあるだろうとは思う。日本でもまた、戦後の神道思想についてのわかりやすい一般書なども出てくると良いと思うのだけど。
そういうのが本当の意味での「多様性を理解する」ということなのだと思うのだが、なかなか世の中がそういう認識にならないのは残念なことだと思う。