民主主義社会に生きることとキリスト教の神について考えること
6月27日(火)雨のち曇り
一昨日はかなり飲んだので昨日は早く目は覚めたが酒が抜けるのに午前中いっぱいはかかった感じがする。家でブログを書いたり色々やってお昼ごろ出かけ、神保町に行って本を見たりマンガを見たりしたが、買おうと思っていた「夢てふものは頼みそめてき」の3巻が書泉グランデになく、結局カフェテラス古瀬戸でカレーを食べただけで神保町を離れた。で、まあいいやと大手町に戻り、丸善で探したらあったので買って、仕事の本を探したがどうも手に入らないことがわかったのでそれも仕方ないなと思い、東京駅で切符を取り途中で銀行の用事を済ませて家に帰る。
洗濯などして家を少しだけ片付けてから6時過ぎに家を出、バスで駅に出てまた丸善に行って3階のカフェでシフォンケーキを食べた。あまり時間がなくてゆっくりできなかったがそのあと新宿に出、弁当を買って特急の車中で食べて実家に戻った。
最近は8時の特急でも混んでいることが多くて特に八王子までは帰宅の足として使う人がいるのだけど、4号車は端の号車だからだろう、(1−3号はない)隣の席が空いていて、気が楽だった。
「神さまと神はどう違うのか?」読了。面白かった。「私」の本体は何か、意識に現れるクオリアとはなんなのか、脳の電気信号だと思っていたけどどうもそうとばかりは言えないかも、みたいなことも思ったり、東洋的な「魂魄」の議論とか「気」の議論とかとの繋がりとか、そういうことを考えるのは自分なのだが、この本を読むことによってそういうことに対する考えの解像度も上がったような感じがする。
第7章は「信じるということ」つまり信仰について。宗教について警戒感が強い人が多い日本において、「神を信じる」ということには抵抗が強いし、またそれを公言している人に近づくことも憚られる、という実情があって、でもなお信仰を持つとしたら、それは何がきっかけになり得るのか、どういう形ならより安全なのか、みたいな話。結局は「神を信じているその人が人間として本当に信頼できる人である」と感じたときに、その人と信仰を共にしたいと思えばそれに近づくことも良いのでは、みたいな話で、これはつまり宗教のある種の共同体性というか、そういうところに信頼を置く考え方だなと思った。実際にはその団体に属する多くの人が信頼できる人かといえばまあそうではないことが多いだろうけど。
もっと客観的に言えばその人が信仰している宗教がどういう教義を持ちどういう運営がされていてその在り方に納得できるかどうか、みたいなこともあるけれども、「信仰を持ちたい」と思ってる時があるとしたら、実際にはもっと切迫した感情になっているのではないかという気もするし、それこそ共同体メンバーになるためにそこに加わるならともかく、信仰として自分が熱意を持てなければそれは信仰と言えるのかという問題もある。
この本のように「神さま」とその背後にある「神」の問題を考えてそれを選択する、というのは一つの方向性だろうと思うが、自分にとっては一神教的な考え方は批判の対象であるし、またそれがあっても西欧キリスト教社会やその思想のよって立つところから現代の民主主義や国家についての考えが出てきている以上、それらについて考えることが必要であることは確かなので、キリスト教信仰を持つ人たちの考え方を理解するだけでなくそういう現代諸制度の原理的な成り立ちについて理解することもまたこの本を読んで考えたことがベースになり得るようには思った。キリスト教の神概念について考えることは、例えキリスト教信仰を持たなくても、彼らが作った制度である民主主義社会や近代国家に住んでいる以上、必要な(ある意味逃げられない)ことだなと思う。
キリスト教思想やそれに対する哲学的考察で今までで最もちゃんと読めた感じはするので、また必要に応じてこの分野も読んでいきたいと思う。