「龍と苺」超展開の意図が判明しつつある/現代世界も世界史も主権国家体制だけではできていない
2月19日(水)雪のち晴れ
朝車のエンジンをかけようと外に出たらうっすらと道路が雪化粧をしていて、車のフロントガラスも白くなっていたので凍結していると嫌だなと思ったのだが、ワイパーを動かすと綺麗に雪がどけられたのでよかった。今朝の最低気温は今の所マイナス4.9度で、最高気温は0度の予想。寒い1日になりそうだ。
「龍と苺」の19巻が発売され、竜王戦の決着から未来編へ移る巻になった。収録は187話まで、そして今日発売のサンデーの掲載話は228話。ざっと40話あるから4巻分くらい単行本になっていないわけだが、今日の228話でここまでの展開が何のためのものだったのかという秘密が明かされ、すごいな、となっている。道玄坂・斎藤・タッキーと前半部の主要なキャラが出てきたのも懐かしい。それにしても64年か、というのはすごいけれども、それで目標を達成する方がさらにすごい。よくできた話だなと思う。
「国際社会における法と力」(日本評論社、2008)所収の篠田英朗「重層的な国際秩序観における法と力 「モンロー・ドクトリン」の思想的伝統の再検討」読み始めた。まだパラパラとしか読んでないが、「モンロー主義」という国際政治に関する考え方を、通常我々が国際関係や国際法成立の起源であり雛形であると考えているウェストファリア体制(主権国家体制)に対するオルタナティブとしてみていこうとしているのかな、と感じた。1648年のドイツ三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約で国際関係の原則が確立した、というのが一般的な見方で、つまりはそういうヨーロッパ中心的な考え方が世界に当て嵌められていった、というふうに私なども考えていたけれども、指摘の通りウィーン体制なども「五大国の勢力均衡による平和」という主権国家体制とは違う論理も当てはめられているわけで、それを絶対視するのも危険がある、ということはあるかなと思った。
戦後のヤルタ・ポツダム体制もまたソ連とアメリカの勢力均衡とその勢力争いによる冷戦構造の方が時として主権国家の権利より優先された場合はあるわけで、そういう意味では常にウェストファリア体制というのは理想論というかある種の絵に描いた餅、という面があったのは否めない。ただその理想を追い、小国の権利を保障することが世界の平和・人々の幸福に資するという考え方もまたあったことは確かだろう。
モンロー・ドクトリンも孤立主義と取ればヨーロッパのウェストファリア体制的理想とは別に、ヨーロッパの争いに巻き込まれないように別の生態系を作る考え、という感じになるけれども、アメリカの権益を優先する、という方向にいけば主権国家体制と時に対立する思想として立ち現れてくることはあるのだろうなと思った。
現代世界の基本は今のところ主権国家体制に置くしかないとは思うのだが、破綻国家や失敗国家、ガザのようによくわからない状態になってしまっている地域もある。イスラム世界では基本的に「イスラムは一つ」であるから国家は便宜的なものだし、アフリカにおいても移動の多い人々と国境によって動きを区切る側の権益の対立みたいなことも事実あるわけで、私のように西洋史をやってきたものには自明という感じの主権国家体制も、世界レベルでみたら妥当性をどのくらい考えるかは難しいところはある。
だからといって武力に訴えて現状変更していくことが良いわけでないのは確かだから、問題ごとに最適な解を求めていくしかないのだろうと思う。ただ少なくともアメリカがどう考える傾向を持っているかは現代世界においては重要なので、その辺のところはしっかり理解していければと思う。
まだちゃんと読めてないのでそれ以上の論は展開しないが、モンロー・ドクトリンを前提にした場合、アメリカがウクライナ戦争やガザ戦争をどう見るのか、ということは考えていかなければいけないことだなと思った。
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