「研究開発がイノベーションを生み、イノベーションが経済成長を生む」/経済成長理論が格差拡大を生んでいるという問題性

2月6日(日)晴れ

毎日よく晴れるな。昨夜は疲れていたのでなんだか寝てしまい、起きたら6時半を過ぎてて外が明るくなっていた。だいぶよく寝た感じではある。

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「資本主義の新しい形」2-2-3研究開発とシュンペーター的創造的破壊 を読んでいる。

ここではP.ローマーがルーカスらの議論を受けて自らのモデル

Y=F(k,K,x) kは個別企業の知識量、Kは社会全体の知識量、xはそれ以外の生産要素

を変更し、

Y=F(L,H,x) Lは労働力、Hは「研究開発に投入された人的資本」、xはそれ以外の生産要素

を提示した。ルーカスらは「人的資産=労働者の進歩」が新しい成長を生む、という考え方だったのに対し、ローマーは人的要素を「労働者」と「研究開発者」に分けたわけである。つまり人的要素の労働側でなく、経営側が「研究開発者」という人的要素を重視することで新しい成長を成し遂げるモデルを作ったということだ。

また彼は産業を三つの部門に分け、

「研究開発部門」は主にHを使って「知識生産」を行い、

「資本財生産部門」は生産された知識とLとxを使って資本材を生産し、

「消費財生産部門」ではHとLとxと生産された資本材によって最終材を生産する、

と考えたという。ここで重要なのは、労働力を「研究開発に従事する者」と「労働力」に分けることで、「知識生産は前者のみが行う」と考えたところだろう。つまり、ルーカスまでのモデルの現場の生産性向上はここでは切り捨てられたことになる。ここは著者は指摘していないが、「なぜ格差が拡大するのか」という理由がここにあるように思った。

この本の議論の本筋に話を戻すと、ここで確立された考えは「研究開発がイノベーションを生み、イノベーションが経済成長を生む」という考え方である。

これは私などには当たり前すぎるような気がするが、どうもあまり当たり前ではなかったようで、この辺は企業史などを振り返ってみて、この考え方がどのように受け入れられていったのかを後付けていかないといけないように思った。また、おそらく日本企業・社会・政府ではこの考えがまだ十分には受け入れられていないことがその停滞の理由になっているのではないかと思った。

イノベーションに成功した企業は時限的に知的財産権を獲得して利潤を独占し、大きく成長するが後発企業も別のイノベーションを起こせばその企業にとって代わられる。このようにして新しい技術が古い技術を駆逐し、シュンペーターのいう「創造的破壊」によって経済発展が実現していく、というモデルができたというわけだ。

この考えによってソローモデルを拡張して新古典派に人的資本を重視したモデルを提供したのがニューケインジアンのマンキュー(1958-)とD.ローマー(1958-)なのだという。彼らのモデルは

Y=F(K,H,AL) Kは資本、Hは人的資本、Lは労働力だがAは技術水準で「外性的に一定水準で向上する」

となっている。Kが入っているのが新古典派的なわけだが、またLの要素も労働者側の努力ではなく外的に与えられるものと考えている点がネオリベ的だと言えるだろう。

彼らは1985年の世界の経済統計を使って経済成長の80%がこれで説明できることを示したという。もともとルーカスらの内生的モデルは新古典派に対する批判とそのオルタナティブの理論としての役割があったものを全部新古典派の枠内に取り込んだわけだから、この論文は「反革命」であると称されたというのも理解できる。

著者はこの理論を強く肯定しているし、またこの理論は確かに直感的に正しい感じがするので否定が難しいのだが、議論が進んでいくにつれて「労働者側の努力や成長」がどんどん評価が下がり、結局単なる「労働力という量」にされてしまっているところがかなり問題があるように思った。

これはつまり、経済成長を成し遂げその果実を得るのは「資本家」と「研究開発に従事する知的労働者」であって労働者への分配は少なくて良い、という考えにつながるわけで、現代の構造的な格差拡大にこのモデルが大きく影響しているのではないかと思った。というか大きな原因になっていると考えるべきだろう。

これは労働者の士気の問題にも影響するし、特に現場の士気が生産の振興に大きく関わるような日本のような社会においては新しいモデルが今求められているのではないかと思った。


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