「葬送のフリーレン」1話〜6話を見た/アカデミー賞授賞式における「アジア人差別」と「異文化コミュニケーション」の欠陥

3月12日(火)雪/曇り

一昨日の祖母の三十三回忌の疲れがまだ取れてない感じの中、昨日は午前中に妹の話をいろいろ聞いて、午後からは市役所に母の分の確定申告をしに行って、夜はもう疲れて出かけずに家にあったパックご飯にレトルトのカレーで済ませ、ふと目についた「葬送のフリーレン」のabemaでの無料放送を、みていない部分をMacBookAirで見ていた。アニメ7話以降は録画をしてあるのだが、当初は見る気がなかったので6回分は録画がない。その分をずっと見ていたのだが、やはり面白いな。

https://abema.tv/video/title/19-171?utm_medium=ads&utm_source=google&utm_term=abema フリーレン_b&utm_campaign=19-171_葬送のフリーレン_231023_アニメ&gad_source=1&gclid=CjwKCAjw17qvBhBrEiwA1rU9wy_uPehlnldlEoJaZvyX1_YSqwopbJM9QbQ5aVYWy66w7cFvTLvz7hoCRJQQAvD_BwE

音楽も「勇者」や「晴る」などとてもよくて、声に出して歌っているうちに「ふつうの軽音部」に出てきた「拝啓 少年よ」を歌いたくなり、久しぶりにギターを手に弾き語りをしてみて、左手も右手も全然動かなくなっていて笑ってしまった。七、八年前にもともと小さめのマーチンのアコギを買って弾いていたのだけど、弦の間が狭くてCとかのコードが押さえにくい。むしろF的な押さえ方をした方ができるのではないかという気もした。ギタボ、ベース、ドラムのスリーピースで、シンプルなコード進行でも新しい曲はいくらでも作れるのだなとこの曲を聴いているといつも思う。ステージングはブルーハーツの「リンダリンダ」を思い出すけれども、もっと古いアメリカのバンドを思い出す感じとかもあって、PVは見ていて気持ちいい。

「フリーレン」の方は作業場で見ていたのだけどもう夜は出かけるのをやめたので自宅に戻って居間で続きを見て、6話の途中で寝落ちし、朝起きてから最後まで見た。これはできれば最初から見たいものだなと思ったが、以前第1話を見た時よりも今回の方が細かいところまで見られた感じがあるので、よかったと思う。

私が最初に身始めたのは第8話で断頭台のアウラの配下と戦うところから。8話9話のあたりは一番盛り上がるところで、この作品の面白さを堪能できたこともちょうど見始めるタイミングが良かったとも言えるのだが、やはり最初から見るに越したことはないとは思ったのだけど、そのためには漫画を読んでないとそうはならなかったと思うので、やはり作品に対してもう少しアンテナを張っておく必要はあったなと思う。


アカデミー賞、今年は日本映画が長編アニメ部門と視覚効果部門で受賞したということでまあ良かったのだが、授賞式でのアジア人差別の話題がTwitterで盛り上がっているようだ。

もともとアカデミー賞などアメリカローカルの映画大会であって国際的な演出はしてるけれどもお里が知れたみたいな感じではある。これを機に欧米でのアジア人差別についていろいろとネタが出ていて、割とそれが刺さってる感じの人が多くて少しへえっとは思った。

ヨーロッパでのアジア人差別というものは、ツアーでなくバックパックで旅行してみればいろいろと経験できるのでオススメなのだが、それをやってみると「日本人は世界では差別される側である」ということが実感できる。それは日本人、特に若い日本人には足りない経験なので、味わってみると良いとは思う。

どちらかというと日本での教育は「外国人差別は良くないのでやめましょう」的な「日本人は差別する側なのでしないようにしましょう」ということしか言わなくて、「日本人は差別される側だ」という言説は教育においても報道においてもあまりみることはない。

これはいろいろと理由があるとは思うのだけど、一つには「差別される側にいる」という居心地の悪さよりも「差別する側にいる」という優越感を無意識の前提として「意識の高い我々は差別なんかしませんよ」という上から目線でこの問題に対処できる、という心理的安心感があるからだと思う。逆に言えば、差別される側のジリジリと身を焼かれるような悔しさ、屈辱感、焦り、絶望、羨望、孤独感、腹の底からの怒りのようなものに魂を心底傷つけられなくて済むからだろうと思う。

大学などにおける「異文化コミュニケーション」というものでも、「差別はやめましょう」「自分たちが譲歩して多文化共生でいきましょう」というようなことは強く押し出しても、「アジア人差別を受けたらすぐにそれをやめるように強くいうべき」というようなこと、またその時にどのような態度を取るべきか、どのような行動を取るべきか、というようなことは指導されないように思う。実際に多文化共生、あるいは国際間平等を達成するためにはそれは避けて通れないことなのだが、屈辱感を実感させるようなことよりも、お題目を言って偽りの優越感に浸っている方が自我が傷つかないで済む、みたいな感じになっている印象がある。

だからアカデミー賞授賞式で現れたことは現実の一断面に過ぎないと思うのだけど、例えネットででもそういう実態があることやそういうことを訴えていくことは重要だろうと思う。

これは弱者憑依をしてアファーマティブな対応を求めることではなくて、人として当然の扱いを要求するに過ぎないというところにポイントをおくべきだと思う。

アメリカはローカルな野球リーグの大会をワールドシリーズと呼ぶような稚気のある国なのである意味露骨ではあっても正直な面もあるわけだけど、ヨーロッパは差別は悪いという前提を踏まえた上でギリギリアウトくらいの差別をしてくるのでもっとタチが悪いということはある。差別されていることに気がつかないのだけどなんか寂しい気持ちがしてその理由がわからなない、みたいな感じになったりする。

まあコミュニケーション能力がないとそういう場面での対応ができないということはあるので、そこは頑張る必要はあるのだとは思うのだけれども。

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kous37
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