土地勘/「人間の可能性を信じる」進歩主義と「人間の築いてきた歴史を信頼する」保守主義/「ふつうの軽音部」:「たまき先輩」過去編のMADと「進撃の巨人」

1月10日(金)曇り

昨日は午前中松本に整体に出かける。道場の場所が移転してからどのルートが最も生きやすいか試行錯誤しているのだが、昨日行ったルートがおそらく一番早くて一番行きやすいだろうと思った。以前は場所が高速のインターの近くだったので松本インターまで行っていたのだが、今回は市街の南側で地元から行くと松本インターも塩尻北インターもかなりの遠回りになるから塩尻インターまで行くか全部下道で行くのが一番近いのだが、やはり時間的には一区間でも峠越えだから高速を使ったほうが早い。ルートも比較的わかりやすくなったしとりあえずこれを何回か行ってみて土地勘を掴んでいきたいと思う。

みてもらった感じでは水が足りないのと目が疲れていることは指摘されたが、いつも正月の後に言われる「食べ過ぎ」は指摘されなかったので、割とこちらとしては動いているからその辺が現れたのかなと思う。正月は疲れましたか、と言われたのでまあ十二人も来たから大変だったけどそれよりも6日の夜に大雨の中見にくい高速を走って帰ってきたのが大変だった、という話をしたらなるほどという感じだったのでまあそういうことなんだろうと思う。

昨日は帰りに道場の近くで地元の大手スーパー・つるやを見つけたのでそこで買い物して帰る。場所的には便利だが八十二銀行のATMが休止中だったのはちょっと残念だった。検索してみると近くに支店がないので結局地元に戻ってから用足しに行ったのだが、要は割と新開地というか、松塩地区の新興住宅街・ロードサイドの小売業が展開している地域ということなのだなと思った。もともと人口も多く農業も盛んな地域だから、地元感も強くあったが。

このルートは母が松本に通っていた時に同乗して通っていた美ヶ原の山麓寄りの道と重なる部分が多いので、慣れてきたら行きやすくなってくるだろうと思った。


保守主義とは何か、という話を続ける。昨日は20世紀後半の共産主義や現代のリベラリズムとの対比で書いたけれども、そもそも保守主義とは何を保守するのか、ということである。

より根本的・一般的に言えば、つまりは「人間を守る」のが保守主義なのだ、と思った。逆に「人間を進歩させる、伸ばす」のが進歩主義だと。

つまり、その時その時の時代で人々は生きているのであり、その人々が生きている環境を守ろうとするのが保守主義であり、その環境を変えていこうとするのが進歩主義だということになる。そういう意味ではその時の時代環境により自然に順応するのが普通は保守主義であり、それに抗って変えていこうとするのが進歩主義ということになる。

保守主義者や進歩主義者の自認も保守主義者には「変えないこと」に意義を見出す、まあ言えば「頑固さ」があり、進歩主義者には世の趨勢に逆らってより良いものを作っていく、改革者・革命家という意識を持つことが多いだろう。

現状に不満を持つものが改革を主張して進歩主義的になり、現状の良さを認めるものがその改革を止めようとして保守主義的になる、というのはもちろん歴史的にも一般的なことだろう。

若者は守るものがないから新たな可能性を求めて進歩主義的になり、大人は守るものがあるから保守主義的になる、という一般的な傾向もあるし、女性でも若い人は学校教育とはまた違う社会のあり方に疑問を持って進歩主義的になるが母になると子供を守るために保守主義的になる、ということもあるだろう。

「人間の可能性を信じる」のが進歩主義であり、「人間が築いてきた歴史の重みを信頼する」のが保守主義だと言ってもいい。

そのように考えてみると、よりシンプルに問題を整理できるように思った。

もちろんこうした意見対立が歴史的に見れば身分対立や階級対立に依拠していた部分が大きかった、ということもまた無視してはならないだろう。市民革命前は貴族階級が保守主義の大きな担い手であり、ソ連成立の社会主義革命前はブルジョアや官僚などの階級が保守主義の大きな担い手であったことは否定できない、というかいまだにそういう視点で見ている人も多いと思うしそれは歴史的に見れば十分説得力のあることなので今でも一定の説得力を持っていることもまた事実である。

しかし第二次大戦後の世界経済の一体化と技術革新、人々の生活が飛躍的に豊かになったことと社会主義の実験の失敗、アメリカの一強支配からのイスラム過激派をはじめとするアイデンティティ政治の台頭、それは先進国にもフェミニズムやジェンダー・環境主義・多様性主義などのリベラリズム過激派(woke)をうみ、社会を分断させるようになった。また昨日も書いたが、情報面での世界的な徹底的な民主化=個人によるスマートホンを使った情報獲得能力・情報発信能力の根本的・飛躍的向上が世界における個人の地位を飛躍的に強化したことは何度言っても足りないくらいの大きな出来事であったと思う。

もちろん現代でも貴族性が残るヨーロッパなどには身分的要素もあるし資本家と労働者の資本主義的階級関係もまた強くあるわけだからそこも無視することはできない。しかし市民革命当時や米ソ対立時代に比べて、そういうものもまた相対的なものになりつつあることは重要だろう。

私などの視点でいうと、社会を破壊しようとするwokeやイスラム過激派、ロシアや中国などの権威主義国の策謀を排除しつつ社会を守ろうとするのが保守主義だ、ということになるけれども、それはこちらとしての価値判断を含んだ言い方になるわけで、進歩主義者から言えば世界をより「一体化」させることに意義があるということになり、それはグローバルな資本主義の利益と合致しているので、本来保守的であると思われがちな資本家階級がよりリベラルな価値を支持するという一見倒錯した状況になっている。

しかしこのことも私などにとっては当然のことだと思っていたが、そういう構造になっているということ自体にまだ自覚的でない人が多く、古くからの「貴族や資本家は保守主義的で悪」という観念から逃れられない人もまだ多いのだろうなと思う。

アメリカなどでは労働者階級であるけれども白人であるという理由で省みられてこなかったレッドネックとかヒルビリーと言われる階級が次期副大統領のJDヴァンスの登場によりより鮮明にその存在がクローズアップされてきているし、日本でも「弱者男性」という形でその存在の問題性が取り上げられているのは、つまりは古い世界認識では捉えきれなくなった問題性というものにようやく光が当てられるようになったということで、「保守」が改めて光を当てられているのは「進歩主義が守れないもの」がこの世にはある、ということが理解されつつあるからなのだと思う。

保守主義についてはまた改めて考察していきたい。


https://x.com/honnokinomori/status/1877276972822213115

「ふつうの軽音部」の5巻で取り上げられている「たまき先輩」についてのエピソードを、作中でも重要な場面で取り上げられているサンボマスターの「輝きだして走ってく」を使ってMADにされたものを見て、同性である女性が好きで、男性に苦手意識があり、根本的には臆病なところが(70ページ)ある「たまき先輩」が、自分に好意を持っていて音楽の趣味が合う喜田たちと「性的カスタマーズ」というぶっ飛んだ名前を持つバンドを結成して3年間活動したその裏側にあったもの、という感じでよくまとめられていてすごいと思った。

こういうものはもちろん著作権的には問題があるのだとは思うが、この漫画を批評的に取り上げたり、あるいは掘り下げて解釈し、それに説得力持たせて展開するためにはこうした手法が一番あっているだろうとは思った。動画時代ということもあり、批評における引用における著作権というものも色々な形で見直せていければ良い面もあるだろうと思う。

たまきはそうした自分の特性もあって最初は女子だけのグループを作り、ギターとして初心者ながら頑張るわけだが、喜田との関係をめぐってボーカルの子が辞めてしまうとグループは空中分解してしまう。自分の本心を知るために憧れていた女性の家庭教師の先生に会いに東京まで行くが、彼女が結婚するということを知り、同性愛者の自分には二重に届かないところにいる存在だったのだと思い知らされる。

そこで自分から自分のやりたいことをやっていけない弱さ、周りの人間関係にも気がつかないふりをしてしまい、結局誰からも孤立している自分の醜さを思い知るのだが、それを振り切るためにサンボマスターを聞くわけである。

その後、玉木は喜田たち男子三人と自分のやりたい曲をボーカルとして演奏する「性的カスタマーズ」を結成し、3年間フルに活動して文化祭の後夜祭のトリをつかみ、主人公鳩野ちひろの前で演奏する。その経緯があったからこその強さがあふれるボーカルやステージトークがちひろの心を掴み、彼女もまた「武道館で演奏するとかに比べれば小さい目標かもしれないけど、私も後夜祭のトリで歌ってみたい」と心からの目標として思うわけである。

そういう事情をもちろんちひろは知っているわけではないが、いろいろな意味でたまきはちひろの憧れでありメンター的な存在なのだなと改めて思わされたし、自分が自分らしく自分の力を最大限に発揮して生きるための道をいかにして選んだか、ということが作中からピックアップされ、明確に表されているのが感動的なのだよな、と思った。

私が進撃の巨人にハマっていた時も、「女型の巨人」の部分をやはりMADで取り上げられたものを見たことがあり、それはYuiのagainを曲に使っていたのだが、今調べてみたら今でもみることができた。

私の中では「進撃の巨人」という作品は今でもこのMADのイメージが強烈に強くて、MADというものの力の強さを今でも思うのだが、このたまき過去編のMADを見て久々にそれを思い出したのだった。

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kous37
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