自分らしさとヴォルガ川/ヘロドトスと宍道湖の夕日と二見浦の初日の出

1月31日(金)晴れ

なんと言うか最近「自分らしさ」みたいなものを取り戻しつつある感じがするのだが、そうなると逆にいろいろ問題もあるというか本来の性格の難点みたいなものもはっきりしてきてそれもどうなんだと言う気もしなくはないのだが、まあせっかくだからなるべく自分らしく生きたほうが自分にとっては生きやすいだろうとも思うので、なるべく自分らしく生きられるようにしていきたいとは思っている。

昨日読むものがなくて、いやないはずはないのだが、なんとなく「歴史的ヴォルガ」と言う論文を読んでいたのだけど、突厥とハザールとブルガールの関係みたいなところがだいぶ理解できてきたと言うか整理されてきた感じがあった。ヴォルガ川は上流に行けば行くほど東スラブ人(ロシア人の祖)の領域に近く、中流下流が遊牧民たちの世界だった、と言うのがノリとしてわかってきたのだけど、東ウクライナやドン川やドニエプル川などもノリとしてはそう言う感じなのだなと思ったり。ロシア史、と言うか中央ユーラシア史を川を単位に見る、と言う見方自体が割と新鮮で結構面白いなと思っている。でも言われてみるとなるほどと思うことが多い。ロシアの祖であるルーシを建国したヴァリャーグも内陸河川沿いに進出してきたわけだし、川とロシア史の関わりは深い。

あとは、ヴォルガ川から西の大河は北から南に流れているが、中央アジアのアムダリア・シルダリアは東から西へ、シベリアの大河・オビ・レナ・エニセイは南から北に流れているとか、そう言う自然地形的なこともここを舞台にして活動していた遊牧民たちにとっては重要な知識だったのだろうなと思ったり。大草原で迷子になって、「川が南に流れている・・・ッここはいったいどこなんだ・・・ッ」みたいなことは多分あったのだろうとか。

ヘロドトスが書いていたのかメソポタミア人が言っていた言葉だったか忘れたが、ナイル川のことを「逆さ川」と読んだ記述があったように記憶している。つまり書いた人物にとっては川というのが「北から南に流れるもの」であったのがナイル川が南から北に流れていることに驚いた、ということを指している。日本のような狭い島国では確かに川は色々な方向から流れているものだが、例えば「海から上がるのは朝日」である常識をなんとなく持ってる関東人(九十九里だ)や伊勢の人(二見ヶ浦の初日の出だ)が「宍道湖に沈む夕日」とかをみると割と意外の念に捉えられたりするようなものかと思う。私は敦賀湾の海岸でキャンプをしたときに原発を見ながら沈む夕日を眺め、その後に降るような星空になるまで見入っていた思い出があるので、まあ変な話だが夕日が海に沈む、というのがすごく印象的だったのだよなと思う。

この話が自分らしさとどう関係があるのかうまく説明できないのだが、まあこんな話を書ける時が多分自分らしいところはあるのだろうと思う。まあこの内容も誰得なのかよくは分からないけれども。

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kous37
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