先祖の見た風景/「考えるのをやめる」ことの難しさ/「声なき声を聞く」ことの大切さ/開放イデオロギーからの方向転換を

6月29日(土)雨

昨日はかなり降ったので今日の予報を見ていたら曇りのち晴れだったから降らないかなと思って車に乗ろうとしたら少し降っていて、ガソリンを入れてパンを買って帰ってくるまで、ずっと少し降り続いていた。土曜の朝に隣町のセブンが併設されているスタンドにガソリンを入れに行き、丘の上のデイリーで塩パンを買って帰るのは週末の朝の習慣になっているのだけど、今日は帰りにまっすぐ帰るのではなくて諏訪大社の方に寄っていこうと思い、いつもと違うコースを走ってきた。車の中でお参りだけして西友の角で曲がって帰ったが、一面に田圃が広がる景色がいつも好きで、ここを通ると心が洗われる感じになる。どうしてこの景色が懐かしく感じるのだろうなあと考えたが、自分が生きてきた中ではこの広い水田の景色は身近に感じたことはないと思うのだが、幼稚園に入る前ごろの住んでいた家の前には畑が広がっていたが、水田であった時期もあるような気もした。

自分の記憶でないなら先祖の記憶なのかと考えて、考えてみると曽祖母の実家がこの近くだったなと思いつく。もうその親戚の人たちともほとんど交流はないが、思い出してみるとかなり前の法事にきていた人がひょっとしたらその親戚だったかと思い出したり。もしその世代の記憶だったとしても、おそらくはまだ構造改善が行われる前の不規則な形の水田だったはずで、今のように綺麗に長方形な田圃ではなかったのだが、おそらくこの地域の構造改善を進めたのは母方の祖母の弟なので、そちらの方の記憶ということもあるかなと思ったり。なんだかんだ言っても地元に関係の深い家系なのだよなあとは思う。

まあそんなことを考えているのは自分の中のことを考えていたからだと思うが、10年くらい前はこういう時はかなり自分の中に沈潜していたのだが今はそういう感じでもない。

考えすぎて頭が疲労するというのは自分にはよくある。その解決策は「考えるのをやめる」「考えないと決める」ことなのだが、「考えても仕方がない」とか「後で考えることにして今は考えるのをやめる」とか自分に言い聞かせたりする。「風と共に去りぬ」のスカーレットの「明日また考えるわ」である。

しかし「考えるのをやめる」が「解放」になって「休息」につながれば良いのだが、逆に「抑圧」になって余計自分に負担がかかる場合もある。それはつまり、自分の中に「逃げちゃダメだ」というエヴァンゲリオンのシンジ的な自己制御、あるいは「呪い」がかけられている場合であって、その場では自在に逃避しつつ捲土重来してそこに戻ってくるくらいのしなやかさがないとどんどん追い込まれていく。

この「逃げちゃダメだ」の呪いというのは案外強いし厄介なものなので、それから逃れられないと自己を抑圧した状態が続き、抑鬱状態的に陥ることもあるのだろうと思う。そうなるとより自由な状態なら見つけ出せるはずの解決策も見出せなくなる。

問題が身の丈に合わず大きいと考える気力がなくなるが、とりあえず先送りするとかなんとか援軍を確保するとか解決主体の規模を拡大することでなんとかしやすくなるということはあるだろう。まあ身の丈に合うかどうか見極めること自体そう簡単ではないこともよくあるのだけど。

「考えるのをやめる」というのはそういう意味で難しいわけだけど、今朝は目の前に広がる水田の景色を見て心が洗われ、少し休まる部分があったので、まあそういうものをなるべく挟んで行けたら良いなと思う。

いろいろなことを考えてしまう、というのは心配性というものだが、政治家というものはどんと構えてよっしゃよっしゃと物事を動かしていくイメージだけど、実際にはある意味心配性なくらいろいろなことに目配りをしながら課題を動かしていく人なのだろうと思う。大胆に見えて繊細、というのは政治家としてはよく聞く話である。

人々が感じていること、望んでいることというのはなかなか形になって聞こえてこないものもあるが、確実にあるわけで、そういう声なき声を聞く、そしてその問題を解決していくというのは政治家の本来の仕事だろうと思う。だから、それが聞こえてしまうというのは政治家の資質の一つなんだろうなと思う。民意はいつでも数字で示されるわけではない。

そういうものを拾い上げようという試みが、東浩紀さんが以前言っていた「民主主義2.0」なのかなと考えていて思った。一人の人間の意見は一つではないのでそれに対応する解決策も一つではない。一人一票未満の意見を吸い上げて民意を感取するのはある種の技巧や努力が必要で、それをネットの進歩を使って数値化しよう、という提案なのかなと思う。

この「声なき声を聞く」というのは経営者の仕事でもあるなと思った。これは「人が語る」というのと違う次元もあるが、なんとなく雰囲気のようなもの、それは人だけでなく設備やその土地、そこの空気など、さまざまなものから自分がどことなく感じているものは常にあり、そこから問題点を感取して状況を把握し、真の解決すべき問題のポイントを掴んで解決に乗り出す、みたいなことができるかできないかは結構経営の成否に関わる部分があるだろうと思う。

これはKJ法でいうところの「一仕事の12段階」というものに落とし込めるが、問題を感取する感度みたいなものがあるかないかというのは大きいだろう。

政治家や経営者というと問題を解決していく遂行能力のようなものが問われがちでそれも大事であることは間違いないが、問題の本質を掴んで解決するためにはまずそれが感じとれないといけない。問題の本質が理解できていないのに解決しようとするとおかしなことになりがちである。

そういうことが起こらないように作られたのがある種の経営理論や経済理論、また政治理論だと思うのだが、そういう意味では割と歴史があるのがマルクス主義経済学で、要はそういう問題の分析から本質の提示までをマルクスが行い、それの具体的な解決策として国有化とかが示されてきたということになる。

しかしそれは時代が経過するにつれて問題の本質も変化していく場合がある。だから常に同じ解決策を当てはめれば良いというものではないのだが、理論の信奉者というのはえてしてどんな状況でも教条的にその解決策を当てはめようとするから、悪手になることはとても多い。そうすると今度はその政策に対するアンチが形成され、揺り戻しが起こったり妥協により新たな政策に変更されたりするわけだけど、教条主義の圧力が強ければ強いほど問題が難しくなることは多い。

現代という時代、2024年という時代は、冷戦期に戻ったようなイデオロギーの戦いが違う次元で展開されていて、まあ(悪い意味での)イデオロギー嫌いな自分としては辟易するのだけど、現場に立ち返って状況を観察し、必要な手当てをしていくという意味での感受性や手当て力のようなものが今はとても衰えている感じがする。少子高齢化が進みケアされる側が急増するとともにケアする側がフェミニズムをはじめとするリベラリズムの伸長によってそれらを自らの責務として捉えるよりも自分たちもケアされたいという方向の人が増えているということもあるだろう。

国を開けばなんとかなる、自由化すればなんとかなる、という愚策がいまだに幅を利かせているのもそれだけそのイデオロギーの影響力が強いということもあるのだが、新たに魅力が感じられる思想が出てきていないということもあるのだろうと思う。ただキラキラはしていない保守主義的な考え方がもっと定着していくことによってしか解決には向かわないのではないかと思うのだが、日本社会自体がそちらの方に思いきれていないのだろうなと思う。世界の趨勢は既にかなりそちらに舵を切りつつあるようには思うのだが。日本の円安が進展しているのも、そういう意味で市場から見てまだ日本の未来に期待ができる段階ではないということなのかもしれないと思う。

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kous37
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