経験論と合理論/ウクライナ戦役で見直されるべき集団安全保障論
4月9日(土)晴れ
今朝は5時前に起きて、少し草取りなどしたあと入浴し、片付けをしたりしてから車で出かけ、朝の冷たい空気の中を走ってきたのだが、桜はまだなものの梅や木蓮など木の花がかなり咲いていて、春になったなあという感じだった。4月5日が七十二候で玄鳥至、ツバメが来る頃とのことだったが、流石にまだだろうと思っていたけどここ二、三日ツバメらしき鳥を見るようになった。まだ巣作りはしていないようだけど、そんな季節なんだなと思う。
草取りも夏になってからだと厄介だが、今の時期はそんなに大変ではない、特に雨が降って空気が湿った感じのある時、朝露の下りて地面が湿った感じの朝は、今の時期は割と気持ちよく作業ができる、ということに改めて気づいた。まあ少しそんなことをやる精神的余裕も出たということだろうか。
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合理論と経験論ということを考えていて、結局経験論が合理論に勝つ、という感じを持ってるわけだが、経済人という経済合理性を追求する人間モデルが経験論のイギリスで生まれたということは面白いなと思った。
100年に一度の大災害を想定するのは「予算のムダ」という(経済)合理主義的発想が東日本大震災の惨禍を招き、合理的に考えてロシアはウクライナに侵攻しないはずという合理的な国際政治学者の予想が外れて予想外の戦禍を招いている。
合理的に考えてウクライナはロシアにすぐ負けるはず、という予想が外れてウクライナは徹底抗戦でキエフ州を解放した。合理主義の敗北が目立つ。経験論者は歴史からいくらでも先例を引き出せるので「そういうこともあるだろう」という論を展開できる。
コロナ禍に関しては、合理的にこのように対策をとればコロナは封じ込めるという疫学的な観点で対策が行われ、経験論的な「病気は流行るもの、人間は死ぬもの」という観点は抑え込まれた。経験論的な英米で割合早くマスクが解禁されたのはそういうことかもしれない。中国は徹底的にゼロコロナを推進してきたが、ここにきてオミクロン株やその変異種の猛威によりそれも難しくなってきている。これも合理主義の敗北みたいな感じだ。
日本はデルタ株までは合理主義的に抑え込み、オミクロン株に対してはなあなあで半合理主義・半経験主義みたいな感じになってて、この辺はなんとなく日本的で可笑しい。完全に経験主義に振れないところが日本的ではあるし、まあこんなものかなと思う。こういうのは各国の国民性というか世論動向とも関わるから、何が正解かというものは多分ない。欧米ないし科学というものはこういうところにもグローバルスタンダードを作ろうとするから、まああまりにも感染状況が酷い地域を救済するにはいいけど、教条主義的に当てはめられて迷惑ということも起こりがちである気はする。
日本は基本的に現場主義で、教条主義的な上からの押し付けを嫌う文化なのだけど、学校秀才が増えつつある現在では若者が教条主義に慣れすぎていて現場とぶつかるケースが増えてる感じはする。また現場主義自体が教条主義的になってるケースも多いし、その辺がもっとフレキシブルにやれるといいと思う。
私は歴史学を勉強した人間だし、経験論的な発想にすごく啓発されてきたのだけど、元々は合理的な思考をする方だと思うし、理屈で考えてこうした方がいいんじゃないかみたいなことがなかなか通らない現場というのは難しいなと思っていたが、まあ経験論的な視点に立ってこそ合理的思考が活かせる、みたいな感じが落とし所かなとは思う。ジェネラリズムがスペシャリズムを生かす、みたいな感じだろう。
ジェネラリストの経験論的発想を合理主義の側が取り込もうとしたのがAI=人工知能のディープラーニングだと思う。一般的なルールのある状況ではAIの威力は凄まじいものだと将棋などを見ていても思うが、AIでプーチンの開戦や東日本大震災級の巨大地震の発生をどれくらい予想できたかといえば、おそらくまだ難しい。ただ、戦争にしても災害にしても「起こらなければ対策できない」という面も残念ながらある。起こる前の対策をいくらしたところで被害は完全にはゼロにできない。AIでは「起こった場合にどういう被害が出るか」は予測できると思うので、そういうところは十分活用すべきだと思う。
ただ自然災害と違い戦争の予測が難しいのは、今回のように「思ったよりロシア軍が無能だった」とか「思ったよりウクライナ軍が頑張った」とか「思ったより西側諸国が結束した」とか「思ったよりロシア軍が残虐だった」などの変数をどれくらい織り込めるかということなのだろうと思う。特に戦争に関しては「指導者の個性」という機械予測が一番嫌いそうな部分が大きいということが改めてわかった。その辺りはやはり基本的に現在でも経験主義的に考えた方が蓋然性が高い結論になりそうではある。プーチンが思ったより妄想的だったとか、ゼレンスキーが思ったより大胆で勇敢かつ雄弁であったとか、バイデンがいろいろヘマをしながらも本気になったとか、ドイツが割と簡単に手のひらを返したとか、岸田さんが思ったより全然ブレないとか、こういう時には本当に「指導者の個性」というものが面白いなと思う。
まあ基本的に戦争等を含む国家間現象とかに関しては私は完全に経験論者だな。合理主義的な学者が「学問の敗北だ・・・」とか書いてるのを見るとまあもっと歴史に学べよ、と思ってしまうしな。現在の国家間システムはそれなりに合理的にできてはいるのだろうと思うが、集団安全保障は核兵器という最終兵器があれば絵に描いた餅であるということが明らかになってしまったし、まあそういう平和論・安全保障論は練り直すべき部分が結構あるなと思う。
まあ集団安全保障論というのは潜在的な敵国をも包摂して戦争自体を禁止、というか抑止するシステムだから、それに違反したものは罰せられなければならないので、バイデンや各国の首脳が「ロシアに代償を払わせる」というのはそういう意味、というか当然なのだよね。あれは脅しに見えるしそういう意味もあるけど集団安全保障を成り立たせる根本思想の表現でもある。
そういう意味では集団安全保障は誰かが、ないしどこかの国が「世界の警察官」をやらなければ成り立たないわけなのだけど、戦後秩序というのは基本的にアメリカがその役割をしてきた。冷戦終結後も「唯一の超大国」として事実上その役割を継続してきたけど、オバマ以来の大統領はそこから降りたがっているので、ロシアや中国はその隙を突こうとしている。プーチンは隙を突いて自分の妄想の理想の姿を実現しようとしている程度だが、中国は下手をすれば自分がアメリカに代わって世界の警察官をやろうとしかねない感じはあるわけで、自由主義諸国としてはかなり潜在的に恐ろしい状態だというべきだろう。
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