人はなぜ陰謀論にハマるのか:共産主義やファシズムの亜流でもなく陰謀論でもないオルタナティブな思想を求めて/村井純「インターネット文明」/急激な冷え込み

10月21日(月)晴れ

今朝の今のところの最低気温は4.2度。4時半頃起きた時に布団を二枚がけにしているのになんか寒いな、気温が一桁になったのかなと思ってアプリを見たら驚いた。10月の下旬なのでこのくらいの気温は当地では当たり前なのだが、今までが暑すぎたので落差が激しい。昨日はなかなか動けずに結局草刈りの作業をしたのが午後になったのだが、今までなら汗だくでやっていたのだけど昨日は風が強かったせいもあって動いているのに寒くて、これは困ったなあと思っていた。適当にやれるところだけやって終わりにしたのだが、またやらないといけないなと思う。今朝は別の畑をやろうと思っているが、少し厚着も考えておこうと思う。

昨日、上の陰謀論のリンクを読んでなんというかいろいろ考えてしまったのだが、陰謀論はともかく話が通じない人たちというのが特に野党、リベラルの支持者に増えているのがどうしてなのか、ということと重なってくるのだよなと思った。

そして、私も1995年まではなんとなく社会党支持で自民党に投票することはなかったから、自分はなぜ考えを変えたのかということを改めて考えてみた。

1995年というのは、阪神大震災とオウム真理教事件、主には地下鉄サリン事件があった年である。

その2年前の1993年に小沢一郎氏を中心に自民党が分裂し、非自民連立政権ができた。非自民非共産の寄り合い所帯はすぐ機能しなくなり、細川・羽田の両政権が潰れた後、連立から排除された左派社会党は自民・さきがけと連立を組んで戦後2回目の社会党首班の連立、村山政権が成立した。自民党との連立ということで社会党左派はそれまで認めなかった自衛隊を容認するなど大きな政策転換をしたわけだが、自民党が閣内にいるという安定感は非自民政権にはなかったので、ややマシなのではないか、と友人とも話していた記憶がある。

しかし正月明けに阪神大震災が発生すると、すぐにさまざまな綻びが目に入ってきた。救援体制の遅れ、兵庫県知事との連絡がつかないために自衛隊が出動できない、など初動態勢の遅れがかなり人的被害を拡大したことは明らかだと思われた。また、3月に発生した地下鉄サリン事件では、社会党の閣僚が宗教弾圧の汚名を恐れて右往左往する中、自民党の野中国家公安委員長が強権を奮って次々と関係者を逮捕していき、捜査を劇的に進展させた。社会党閣僚が、「やはり自民党は頼りになる」と言っていたというのを聞いて、なんとなく社会党を支持してきた意識がガラガラと崩れて行くのを感じたわけである。

社会党も戦後すぐには政権を取ったこともあるのだし、各国の、特にフランスなど社会党が政権を担当したことも多いわけだから、機器には機器で対応する能力は当然持っていると思っていたのだが、全然無能であるということが明らかになったわけである。これが自分が左翼支持をやめ、その後「保守」の立場にたどり着くまで、民族主義右翼から社民主義までさまざまな政治思想を支持対象に入れて考え始めるきっかけになった出来事だった。

自分はそれまでなんとなくリベラル、何となく社会党支持、何となく左翼の装う正義性が良いものだと考えていた感じだった。リベラルという言葉はどちらかというと保守より、右翼反動みたいなイメージさえ当時はあって、でもまああえてリベラルくらいにしとこうかな、みたいな感じではあったが、左翼バリバリの友人たちからは天皇制を支持していることもあったし自分の宗教は何かと言われたら「神道」と答えるくらいには意識はあったので、そういうところは批判されがちではあった。

このツイートを読んで私は阪神大震災を思い出し、また今回の能登地震の災害対応に対する訳の分からない多くの批判も思い出して、要はそういうことなのだなと思った。彼らは「日常性の維持」の意義を軽く考えているというか、それは当たり前に維持されるものだという信仰のようなものを持っているのである。

これはおそらく、1995年当時の自分にも当てはまったことで、横倒しになった高速道路の映像などをみながら「まだ自衛隊は出動していないのだろうか」と漠然と考えていたのだが、社会党首班の政権であるということが自衛隊出動へのネックになっているとは思ってもみなかった訳である。自衛隊が活躍してくれたら困る人たちが閣内にいる。それが災害対応のネックになっているとしたらこれほどふざけた話はない、と思った。一国を争う救助の場面でそんな政治的な損得を考えるような人たちに日本を任せるわけにはいかない、というのがやはりその時の気持ちとしては大きかったのだと思う。

そして、当たり前の話なのだが、左翼が批判している自民党支配の日本の日常というものが、どれだけ膨大なコストをかけて維持されているのか、そして日常復帰のためのシステムの脆弱さを、いかに自民党政権がリーダーシップをとって埋めてきたのか、ということを痛感させられたわけである。

そして「この日常性維持のための膨大な仕事量を維持するためにほとんどの国民が働いているのだ」、という事実に気づいた時は打ちのめされそうになった。

世の中を変えたい、よくしたいというのは簡単だが、現在曲がりなりにも構築されているそれらのシステムを維持しながらそれらを変えて行くのは並大抵のことではない。日常性は簡単に崩壊する。当たり前のことが当たり前にできるように、美しく優雅に水面を進む白鳥は水面下で足を動かし続けている、というのは日本社会そのもののたとえでもあるのだなと思ったのである。

「正常化バイアスが強い」というのはつまり、その「日常性を維持するためにかけられている膨大なコストを目にしたくない、耳にしたくない」ということなのだと思う。こんなのはできて当たり前だ、と言いたい。そしてそんな「普通の」ことしかできない自民党政権はダメだ、自分たちに任せればもっと良い日本ができるのに、というわけである。

つまり、自分たちは日常の「自民党支配」を壊したくて仕方ないのに、その日常がどれだけコストをかけて維持されてるものなのかまるで理解していない、ということなのだと思ったわけである。

これは石破茂氏が自民党総裁選で勝った時の市場の反応を思い出せばすぐわかるわけだが、日本経済の見かけの好調も、アベノミクス以来の成長政策が功を奏してきていたからそれなりの評価を得られていたのに、緊縮思考が強いと思われている石破氏が首相になることでそれが崩れると予想されたらあっという間にしじょうは離反するのである。

あるいは安全保障政策もそうだが、安倍政権・岸田政権と営々と築いてきた二国間防衛の網の目の整備による東アジア的な安全保障策と「自由で開かれたインド太平洋」の概念を「アジア版NATO」などという実現性皆無の概念を打ち出すことで相当アジア諸国の反感を買ったことは、防衛に強いと称する割には現実のキリキリする二国間交渉にほとんど関心を持ってこなかったことの表れなのであって、対中国の緊張が高まる中で安全保障政策が機能しているためにまだ何とか安定しているという日常性の維持への関心がやはり足りなかったのだろうと思う。

日本の政治は官僚が優秀だから政治家はどうでも日常は回るんだ、というのもある種の幻想であって、官僚の最たるものである裁判官が出向先でインサイダー取引に手を染めたり、官僚だけでは決してシステムは回っていない。当然ながら法システムを作る役目そのものは政治家=国会議員(Law Maker)の役割であって、AV規制法のような不適切な立法の例も見られるように国民がそれを監視していかなければならない点は大きいのだが、国会議員もまたリーダーシップを取ることで日常を動かすための大きな担い手であることは間違いないわけである。だからこそ兵庫県知事のパワハラ=不適切なリーダーシップがあれだけ問題になっているのであるから。

結局のところ、我々日本国民が築き上げてきたこの日本社会の日常というものを、維持して行くのか、アップデートして行くのか、について考えることは意味はあるのだが、日常を破壊して混乱の中で新しいものを作っていけば良い、みたいな危ういスクラップアンドビルドの思想を支持する人たちが少なからずいるということ、つまり「日本社会の日常が全体的に「うまくいっている」こと自体を不満に思っている人たち」というのはどうしてもいるということなわけである。

それは本人がその「うまくいっている日常」から疎外されている、典型的には氷河期世代の人たちなどは、不満を述べる正当性はあると思うし、また社会やネットなどの日常に関わるシステムの急激な進化・変化についていけない高齢者世代や、福祉に手厚い日本社会において将来の手厚さに期待できない若い世代、自己実現の夢を見させられて実際にはそう甘くないことに憤っている女性層、女性優遇に割りを食わされている特に若い男性の憤懣など、それぞれに不満があるのはまあどんなにうまくいっている社会でも当然あるわけである。

日常性を脱構築する、というフランス現代思想が一時人気があったわけだが、最近はほとんど聞かない。実際のところはそれを支持していた根拠であったマルクス主義が世界的に政治システムとして崩壊したことがその有効性を失わせているということなのだろうと思う。

そうなると、日常に不満を持つ人たちはどこに向かうのかといえば、結局は反原発、反ワクチン、エコロジー、ラジカルフェミニズムといった「敵はここにいる!」と示してくれるある種の陰謀論になってきてしまっている、ということなのだと思う。

つまり、社会への不満を吸収する思想がそれだけ貧困化しているということであり、これはそういう意味ではあまり良くないことだろうと思う。そういう「社会への不満を吸収する思想」は場合によっては本当に権力を獲得することもあるわけで、そうしたものがより真っ当なものとして組織された方がまだ良いだろうという気はする。

ただ、近代化以後、そうした「社会への不満を吸収する思想」として出てきた二つの有力な思想がマルクス主義とファシズムであったわけで、ファシズムは20世紀半ばには非合法化され、白人優越主義的右翼思想として残ってはいるが、懸念はあるけれどもまだ懸念の状態かなという気はする。マルクス主義の方は70年余りにわたる社会主義国家の実験として壮大に失敗したわけだが、権威主義国家を維持するためのシステムとしてはいまだに機能している部分があり、中国や北朝鮮などの一党独裁国家はいまだに妙脈を保ってはいる。しかしその実態が知れてくるにつれて、西側自由主義国家が目指すべき国家体制としては魅力を喪失したことは確かである。

そうした右翼的なファシズムにも左翼的な共産主義にも引っ掛からなくなった膨大な人々の不満が陰謀論に吸収されつつあるのだとしたら、これはやはり注目しておかなければならない現象であることは確かだろうと思うのである。

つまり、マルクス主義やファシズムの亜流ではなく、また陰謀論でもない人々の不満を吸収するような真っ当なオルタナティブの思想が出てくる必要があると思う、ということなのだと思う。

私自身はそれを保守主義だと考えてきたし、バークやオークショットなどのイギリス保守主義や明治国家以来の日本の近代化の伝統の肯定、日本文化の古くからの連続性の意義、天下の大勢論のような大和心(例えば和魂漢才)的な現実対応能力の伝統のようなところに価値を見出す思想構築が重要だと思ってきたのだが、まあそれはつまりは現状肯定に傾きすぎているということであまり魅力的に映らないのかなという気はしてきた。

今どういう思想が日本及び世界に必要とされているのかというのは、また改めて観察していかなければならないところはあるなと思うのだが、とりあえず今感じたり考えたり思ったりしていることをまとめて書き留めてみた。


昨日はブログを書くのに11時半くらいまでかかり、それから少し草刈り機で草刈りをして、昼食、昼食後にさらに鎌で細かいところを刈り、午後はちょっと寝転がってスマホゲーム(最近Fruit Merge=スイカゲームにハマってしまっている)をやったりして、あまり本も読めていないしアニメも録画したのが溜まる一方なのだが、夕方出かけて夕食の買い物のついでに書店を覗いて本を見ていたら、村井純「インターネット文明」(岩波新書、2024)を見つけて立ち読みしているうちに、普段自分が相当依存してしまっているインターネットというものを一度客観的に見直してみるべきだという気がしてきて、買うことにした。

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やはりネットで自分の関心のあることだけを読んでいることでは得られない知見がいろいろあって、むしろこういうもの、実は自分の一番身近なものについてもっと知らないといけないなと思ったりしたのだった。この本の感想はまた書こうと思います。


読みかけの本もいくつかあるのだけど、読み続けるエネルギーが足りなくなってきたので、また全体を構築してから再度挑戦したいと思う。

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