「不滅のあなたへ」がだんだん「火の鳥」になってきた/進歩派の伊藤博文と車の両輪として明治日本を築いた保守の山縣有朋
10月12日(水)晴れ
朝起きてなんとなくモヤモヤしたものがたくさんあり、それがどうも形にならないまま自分の中で燻っているのだが、それを整理しようとしても何をどう考えていいのかからあまり方針が立たない感じがあり、なんとなく車を走らせて気分をスッキリしようとセブンでマガジンとカフェラテを買ってから少し走ってきたのだが、こういう時に限って前の車が遅く、帰ってイライラするという何をしに行ったのかわからない感じになった。まあありがちなことではあるのだが。
よくいく店で見かける店員が全然違うところを歩いているのをたまたま見かけたのだが、パンク風のジャンパーを着ていてああ、そっちの人だったのかと思ったり。
なんとなくマガジンを見ていて「東京卍リベンジャーズ」と「不滅のあなたへ」が少し見えたのだが、両方ともとても面白そうだった。
「不滅のあなたへ」は「聲の形」の大今良時さんが人類の長大な歴史を描いている感じの作品で、極北の貧しい地に一人取り残された少年と犬のところに現れた何にでもなる球体が徐々に人間性を獲得し、しかし永遠の命を持ったそれは通り過ぎていく人間たちとの交流の中で温まったり傷ついたりし、またあるいは死者を蘇らせるなど人間のルールを超えたりしながら、幾時代かがあって敵である「ノッカー」や自分を創造した「黒いの」との関わりを持ったりし、ついに現代に至って物語が完結するかと思ったら現代編も「60年を過ごして」終わり、さらに展開していくということでめくるめく思いがしたのだが、まだまだ続くこの物語は、要は大今さんが描いている「火の鳥」なのだと思い当たった。
手塚治虫「火の鳥」は原始編の次が未来編で、一番の過去から一番の未来へ飛び、だんだん現代に近づくという構成になっていたけれども、「不滅のあなたへ」はゆっくりと未来へ進んでいく。そして主人公フシが出会った人々のさまざまな記憶を「その人の形態になる」ことで甦らせていく。かなり前の回だが、私が一番心にグッときたのはフシが「酒じい」の姿になった時で、手塚治虫は「火の鳥」を神の視点から、つまり人間がいくら努力しても変えられないものは変えられないというある種のペシミズムを描いているように思ったのだけど、「不滅のあなたへ」では「記憶」というものそのものが大きなテーマで、マーチやグーグー、トナリその他魅力的な登場人物たちが現代に甦ってしまったのは読んでいてどうしていいのかわからなかったのだけど、過去と名付けられた記憶が人間に何を及ぼすのかよくわからないままに考えさせられている。
今日が返却期限なので昨日は読みかけになっていた岡義武「山県有朋」(岩波文庫)を読んでいたのだが、面白い。今読んでいるのがちょうど第一次山縣内閣のあたりなのだけど、山縣という人物に焦点を当てて明治史を見ていくと、明治憲法下の日本の「保守的」と言っていい面を作ったのが山縣だったということが改めてはっきりしてくる。
初代陸軍卿として徴兵制を施行し、一方で内務大臣として保安条例、地方制度や教育勅語、文官任用令など国家の存立を重んじ民権運動を抑えるための政策を主導したのが山縣なのだなと考えると、内閣制度・帝国憲法・藩閥と民権を融合させた立憲政友会発足など進歩的な政策を進めた伊藤博文とが車の両輪のように働いて明治日本を実現していったのだなと思う。
これに積極財政の大隈重信と、地租改正と緊縮財政で財政規律を実現した松方正義を加えて財政面での明治日本の確立をもう一つの柱とすれば、三本柱が日本を作ったという構図が見えてくる。明治期のさまざまな制度の実施も無人称で語られることが多いが、それぞれの実現には人間的な駆け引きや決断が当然あったわけだから、その辺りをもっと明確にしたほうが歴史は見えてきやすいと思った。
これは直接は関係ないが、山縣が「自分は一介の武弁であって政治はわからない」と言っていたというのは面白いし、イデオロギーよりも自分が正しいと考えたことは断固として実現するという姿勢と、そのために強固な権力基盤を築く、というところが面白いと思った。この辺のやり方は多分スターリンや日本で言えば今やっている「鎌倉殿の13人」の主人公、北条義時に似ているのだろうと思う。義時も絶対大河の主人公にはならなそうな人物だったが、それ以上にならなそうなのは山縣有朋だから、そのうちぜひ山縣を主人公にした大河ドラマが見てみたいものだと思った。まあ、明治時代の政治家はまだ生々しいので主人公にするのは難しいだろうとは思うけれども。
山形の思想が尊王攘夷から馬関戦争を経て開国倒幕へ変わり、洋行を経て国力の強化と国家防衛に変わるなど、文明開化よりは防衛という方向に行ったのは同じ軍事重視でも国民に権利を付与して国家防衛の主人公にしようという板垣退助とは違って民権派と対峙し国民の義務としての防衛という方向を推進したのは西欧的な理念だけでは国は守れないというある種のリアリズムがあったことは間違い無いと思うが、政治的な意味での実務的な戦術家としても優れていたことは間違い無いだろう。良くも悪くも山縣は政府内で最も「ブレのなさ」を感じさせる政治家であったのでは無いかと思うが、だからと言って強く支持されたり国民に人気があったりするタイプの政治家ではなかった。むしろ陰気なラスボスのようにみられていただろうと思うのだけど、理念実現よりも戦術的に手段を選ばない感じはむしろ現代の社会運動家に受け継がれているような気がする。
まあ今更ながらまた明治史をもう一度ちゃんと勉強したほうがいいなと思えてきた。そういうことがたくさんあるからなかなか一つのことに集中して手をつけることが難しいのだけど、とりあえずこの本は貸出期限の延長ができるかどうかを問い合わせてみようかなと思った。
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