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モラトリアム的自罰的思考

【メンヘラ注意報】

【辛い人は犬だけ見て癒されてください】


当方絶賛モラトリアム期である。

大学はもうすぐ卒業で、社会人まであと少しで、社会を知らない、怖い。

そういう時なのもあって、ものを考えることがあっても、それは現実に立ち向かうものではなく、どこか逃げ腰なことばかりである。

で、そこに自罰的思考が入ってくるとろくなことにならない。


―――――

何かと考えてばかりで行動をしないからか、高校大学と年を重ねても楽しくなることなどなかった。それどころか夏休みの残りの日数を確かめてため息をつくような、どこか退廃的なものを日常に感じるようになった。

挑戦して何かを得ていく生活ではなく、終わりの見える「平穏」を守ろうとする生活。そこにはピリリとしたスリルがあるわけでも、叫びたくなるような痛みがあるわけでもなく、温くてふんわりとしたもやもやしかない。

抜け出す必要がある。
しかし私は臆病だった。今でも抜け出せずにいる。


―――――

何かを求めて生きているのではなく、今あるものに縋り付いていると、本能はそれから抜け出すように呼び掛けてくるが、理性(?)はどこか諦めた感じで「もういいんじゃない?」と告げてくることがある。

「今なら、失う前に終わらせることができるんじゃないか?」


...

しかし僕には自〇しない理由がある。「なんか駄目だから」「よくないことだから」「周りの人の迷惑がうんぬん...」それ以上の理由が僕にはある。それがつっかえ棒になって、どんなにつらい日も危ないところまではいかずに済んでいる。


しかし

私が所謂「ズレた」人だった時から、「普通の」人になるために見つけた自罰的思考は、暴走した機械のように常に私を疑い、私の中の世間一般と照らし合わせる。

「君の言う死なない理由は、ただのこじつけじゃないか?」「そんな面倒くさいこと考えなくたって君が死ぬわけないだろう」「考えている暇があったら、周りの学生みたいに友達でも作って遊んで来いよ」

彼らの考えは決して間違いではない。彼らに悪意があるわけではない。彼らは僕に大人になってほしいと思っている。まともな奴になってほしいと願っている。だから彼らは、まともな奴は自〇するわけない、そんなの杞憂だろうと、つっかえ棒を外そうとする。

そのつっかえ棒は、私を自〇から守るものでありつつ、重荷でもあった。何か新しいことに踏み出すのを躊躇させるような重荷だった。だからそれがなくなれば、或いは、僕は抜け出せるかもしれない。あのふわふわとした退廃的な時間から...。


私には自〇しない理由があった。しかし、その考えは杞憂かもしれない。不要なものかもしれない。でもでも...。決められない、分からない、怖い。ふわふわした時間だけが過ぎていく。


そういう時にあることが起こった。


つづく

――――――





彼女ができたとかじゃないです。

そりゃあね。かなちい。

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