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色の問いは、コトバに変わる

 人はなぜ色に惹かれるのか。
 なぜ、好きな色があるのか。

 なぜ色を好きになるのか。それも特定の、そして特定の色の組み合わせを。
 しかもその組み合わせはパターン化される。ファッション誌やデザイン誌を開けば、色の組み合わせが“正しく”示されている。そして、組み合わせパターンが発展して、個人あるいは集団のなかでスタイルができあがる。

 僕にだって好きな色がある。
 その色を目にすると、思わず心惹かれ、おちつき、気分があがる。色のたとえをあげれば、「ターコイズブルー」のような、「紺碧」のような、フォルクスワーゲンやフィアットといった外車に使われているような質感の、薄く緑がかった青が好きだ(気になった方はググってくださいまし)。

 ただ、自分の好きな色を言葉で表現するのはとても難しい。本当は自分の好きな色に名前をつけたくないんだ。ある特定の色へカテゴライズされた途端に「そうじゃない!」と強く否定したくなる。100パーセント合致するような色などこの世には存在せず、存在するのは僕の頭のなか、そして僕の目のなかだけだ。なんてったって、その色は“イメージ”なのだから。

 ある色の名前を使わずに表現となると詩的にならざるを得ない。
 その昔、色を言葉で表現しようと試みたことがあったけれど、結局は疲れただけだった。他人の色のイメージと少しでも合わさるように、示したい色を思い起こせるようなシーンやイメージを詩的な文脈で練って紡いでいたこともあった。

 そもそも、色が存在しない状態をイメージできない。
 よく白黒(モノクロ)は「無色」あるいは「無彩色」の状態で使われるが、決して「色が無い」わけではない。それは無色のありさまを表現(表象)しただけであって、本当の意味での無色ではないのだ。CMYKやRGBでは「無」の状態を表現できても、その状態そのものに至ることはできない。僕らは絶対的な無色の状態を経験できない。

 よく思うのは、目の見えない人に色はどう見えているのか、ということ。
 盲目の人は目は見えないが色のイメージがないわけではない。もちろん、先天的か後天的かによる差異はあるにしても。それなら彼らの好きな色とはどのようなものなのか。

 僕はこんな夢想をたまにする。目の見えない人に自分の好きな色のことを伝えるにはどうすればいいのかと。何をイメージしてもらえばいいのか。そのときに僕の抱く色の質感は、相手と重なるだろうか。

 そのとき、ぼくの感じる心の動きを彼らの“見てきた”ワンシーンと重ねられるような、そんなコトバを相手へ贈ることができればどれだけ嬉しいか。

 そんなコトバを昔っから探している。

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半田孝輔|ライター・編集
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