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寄り添うな、伴走せよ -2020.06.30-


正直、9年7ヶ月前のことばかり思い出している。
もう知らない人がいるかもしれないが、FMラジオ局が消えたのは2010年にもあった。
だから「またかよ」と「これから先も」が交錯している。

あの時のTwitterは、放送終了に向けての感傷的な空気が充満していた。
だが、2010年9月30日、同じエリアのAMラジオ局のワイド番組が「今日、なくなるラジオ局があるのを知っていますか?」と街頭アンケートをした。

その答えは、大半が「知らない」と。
番組の出演者は「これが現実だ。2010年のラジオの現実なんだ」と。

この十年、俺たちは前に進んだのかい?

そして、その地で再び立ち上がったFMラジオ局は、6月30日、東京からのネット番組を流しながら、昼のうちに静かに放送を終えるようだ。

2010年。
ラジオとTwitterの親和性がとかく強調され、ラジオ復興の起爆剤のように言われた時代。僕もその渦中で踊っていた1人だ。

しかし近年、ラジオ界のアワードを受賞した喋り手は放送で叫んだ。

「ラジオとTwitterって本当相性悪いんだよ!馬鹿の意見が素通しになっちゃうから」

10年とは、そういう時間の流れだと思う。

それは、大きな災害が続き、かつTVやネットメディアの殺伐さ・杜撰さが露見された時代でもある。そして「ラジオはいい」と言われるようになった。極めて相対的な話で。かつ、判で押したような言葉ばかりで評価されるようになってしまった。絆や繋がり、自由な場所…それが何かに結実したか?最近は在宅勤務で聴取時間が増えた?あれは在京民放5局の統計だ。

じゃあお前は、と言われるだろう。

僕は番組を作る側でかつ、ラジオに関する執筆の場をいただいている。でも、自分の番組さえよければと思っているような気がする。そして、自分の生活と場を守るために必死な作り手、喋り手がいる。ラジオの作り手にも、生活がある。

そして、ラジオ自体に生活はあるか。
意見、投稿、本当に忙しかったら、番組に何かを送っている時間なんてない。「リスナー」とは聴く人のことだ。日々の合間にちょっと笑ったり、曲を口ずさんだりする人がいる。投稿なんかしない。ハッシュタグつけてツイートしない。でも、聴いている。

「営業回りのサラリーマンが、会社の車で缶コーヒー片手に聴くラジオ」を掲げた、昼のワイド番組がかつてあった。それでいいじゃないか。ラジオが流れる先は、投稿者の端末だけじゃないんだよ。

同じく6月30日をもって20年近い歴史に幕を下ろす放送局の番組も聞いていた。


最終日前日をもって、ニュース、天気、交通情報の放送は終了し、最終日は通常番組のスペシャル編成でラストを迎えるという。そこでは「いつもは聞くだけのリスナーですが、最後なので初めてメッセージを送ります」で始まる投稿が紹介されていた。

寄り添うな、伴走せよ。
投稿、シェアしなくても、聴いている人がいることを、私たち制作者は忘れているんじゃないか。それは送り手側だけではない。「参加して盛り上げる」リスナーもまた、忘れているのではないか。

5年後は、日本でラジオ放送が始まって100年。

この10年、ラジオは失うものがあった。
得たものもあったが、手放した、消した、消えたものも多かったと僕は思っている。ここからの5年。ラジオの「再点検」だけでは、時間は足りない。

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