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〚10分で読める小説〛 どうやったって一緒にいんだからさ
ここ3週間ぐらい、仕事から帰宅した瑠奈が弱火でお湯を沸かしてる鍋みたいになっているのは分かってる。ふちでぷつぷつと小さな水泡を作り出してるみたいな。
今日も帰ってくるなり「私の靴いつもここにおいてるの分かってるでしょ。なんで今日だけ置くのよ」とか言って、ため息をついてたし。
瑠奈は昔から夜の間は部屋を少し暗くしたい派で、5日前に明るいと文句を言われてから、彼女が帰宅する5分程前には、僕は間接照明だけに切り替える。今日も例に漏れず部屋はオレンジ色に薄暗い。
「これね、いつもは牛肉だしの粉末と醤油で味付けしてるじゃん、今回は醤油じゃなくて味噌にしてみたんだ。どう?」
「ごめんね、最近帰りが遅くて。家事全部任せちゃって」瑠奈はつまらなそうに、味付けを味噌に変えた油揚げともやしの炒め物を箸でつつきながら言った。味については触れず、それ以降炒め物には手をつけそうな素振りはない。
「いや、大丈夫だよ。仕事、忙しいのは分かってるから。手に負えないこともあるじゃん、仕事って続けてればさ」瑠奈が避けた分を消費するために、僕は炒め物と白米を交互に口へ運んだ。
白米と炒め物の往復を繰り返し炒め物の皿を空にして顔をあげると、瑠奈が箸を置いてじっと僕のことを見ていた。目の表情が決して好ましいものじゃないことはすぐに察した。
「何。何が言いたいわけ。私、手に負えないなんて言ったっけ。凌斗にそんなこと言われるような仕事の話してないよね。」
「ごめん、ちょっと待って。そんなつもりじゃないよ。普通に、ここ最近仕事終わるの遅いみたいだし、疲れて会社から帰ってきて大変そうだからさ」適当に話してると誤解されないように、僕も箸を置いた。実際、適当になんか話してない。
「そうだよ、私は会社に勤務しに行ってるよ。毎日ね。高スペでしごできの在宅勤務のあなたからしたら大変かもね」
「なぁ、違うってば。心配しただけだよ、それに、別に在宅勤務が偉いってことはないだろ。会社で働くのも在宅もただの働き方の形だろ。」
膝の上を忙しなく前後に行ったり来たりする僕の両手のひら。
この癖は小さい頃からのもので、イライラすると発作的に起こる。執拗に強くこすり続けるから、後でビリビリと手の平が痺れる。痺れが引くまでの間ビリビリする手の平を眺めることが妙に落ち着いて、19歳の夏頃まではこの癖もセットだった。ある日眺めることを忘れていることに気づいて、別れた恋人への未練が突然なくなるみたいに眺める癖だけが抜けて、膝にこすり続ける行為だけが残った。
「ごめん、私その心配の仕方いただけないわ。私がおかしいのかな。あー待って、作ってくれたのにごめんね。もう今日は食べられそうにない、ごちそうさま」瑠奈は眉間にしわを寄せ髪を無造作にかき上げため息を吐くと、寝室に引っ込んでいった。
僕は本当に心配してただけなんだけどな。
瑠奈が仕事にやりがいを見出してるのは分かるし、それは僕もそうだから否定する気はない。だけど、彼女が好きでやっていることでなんで僕がこんな扱いをうけなければいけないんだろう。応援はしているつもりだけど、こういうことが3週間も続くと自分の気持ちの中で一体どれが本物なのかが分からなくなる。彼女を思う気持ち。当たってくる彼女が憎い気持ち。こんなはずじゃないんだけどなとか、あんなになるまで会社は何で何も言わずに仕事させるんだよとか、ああもうなんでもいいや家事とか自分が困らない分だけでいいかなとか、一体この中のどれが本当の気持ちなのか。
気付いたら痺れた手の平を眺めていた。
このビリビリとした感覚だけが、唯一の本物だとそんな気がした。
無数なミクロサイズの大量の何かが手の中を這ってるような感覚を眺めることで得る落ち着き。
久し振りだな。あの夏以降味わってなかったなそういえば。
痺れが引いてきた手をグーパーと2回繰り返すと、わずかに残った痺れは完全になくなって、同時にイライラも落ち着いてきた。
「麦茶でも飲むか」キッチンでコップを取り出し、冷蔵庫にあった麦茶をコップ半分まで注いで一気に飲み干す。
コップをキッチンに置いた時、壁にかけられたジョン・コルトレーンのレコードの横に飾られた、額に入った付き合いたてだった19歳の僕と瑠奈が抱き合って笑い合っている写真が目に入った。
「なんか、随分長い間見てなかったな」
額を手に取ってホコリを払うと、昨日のことのように瑠奈との日々を鮮明に思い出した。
瑠奈と初めて会ったのは19歳の夏の少し前、梅雨の雨の日だった。雨とアスファルトと草木の青いかおりが混ざった匂いが強くて、僕はコインパーキングの縁石に傘も持たずにずぶ濡れで座って、両膝を擦り痺れた手の平を眺めていた。
「梅雨ってエモくなることしたくなるよね。何となく分かるかも」瑠奈は水色のレインコートを着ているのに何故か傘を差していて、それだけ言うと傘で僕が濡れないようにしてくれた。
僕は学校でもどこでも人と上手くやっていくのが苦手で、それが原因で親とも関係が悪化していた。
その日、とうとう互いに感情が爆発して喧嘩になり、僕は逃げるように傘も持たないで家を飛び出し何も考えずひたすら歩き続けてコインパーキングにたどり着いた。
服が雨でグショグショになって重たく、歩くのにも疲れそこで座っていた。
そこに現れて傘を差してくれた水色のレインコートを着た瑠奈は、妖精に思えた。
それを機に連絡を取るようになった僕達は毎日一緒にいるようになった。
瑠奈は大学のために一人暮らしをしていて、あっという間に僕は彼女の家に寄生するみたいに寝起きをした。
その時の瑠奈には時々、寝るときに自分の親指を赤ん坊のようにしゃぶりながら寝る癖があって、僕がそれを指摘すると「小さい頃から不安になるとしちゃうんだよね」と少し恥ずかしそうに言っていた。
「治そうと思わないの?赤ちゃんみたいじゃん」
「うーん、まぁもう赤ちゃんじゃないからおかしいのかもしれないけど、まだ私には必要なのかも。本当に必要がなくなったら勝手になくなると思うんだよね。よくさ、禁煙しないとなとか大人が言うけど、そう思ってるのに吸っちゃう間はまだ必要なんだよきっと。本当にその人にとってそれがいらなくなったら、自然と消えていくんじゃないかな、っていう指しゃぶって寝ちゃう癖の言い訳。どうか許してください私にはまだ必要なんです」照れくさそうにニヤニヤしながら言っていのを覚えてる。
瑠奈の家に住み着いてから毎日色々な話をして、一緒に料理をしたり、歩いて少し遠いスーパーまで2人で買い物に出かけたりして生活を共にした。
僕にはその時間がとても安心できて、瑠奈と一緒にいれれば僕にはそれ以外の世界はどうでも良かった。
瑠奈との日々が始まってから2ヶ月程が過ぎた真夏、僕は一度実家へと戻った。親には酷く叱られて口論になりイライラしたけど、その時にはもう擦った後眺める癖はなくなっていた。いつからなくなったのかも思い出せないけどそれが無くなくっていることに気付いた瞬間だ。それから今日までずっと、擦った手を眺めることは一度もなかった。
僕は瑠奈といることで安心する。それは今も変わらない。彼女がいてくれるだけで凄く心が静かになる。風や波がない日の海辺みたいに。
落ち着くためにしていた手を眺める癖の代わりに瑠奈がなってくれてたのかもしれない。彼女は僕の安心であって落ち着き、そして長く日々を共にした愛する人なんだよな。
「もう寝ちゃった?」
寝室のベッドには、とてつもなく大きいチャーシューが転がっていた。
「ごめんね、私って最低だね。自分が余裕ないからって凌斗にあたってさ。凌斗は家事も文句一つ言わずしてくれて、さっきだって気を遣って話してくれてるのに。最近ずっとこんなでさ、ごめんなさい」
チャーシューからこもった声がして、僕はその正体が布団に包まった瑠奈だと知った。
「ううん、大丈夫。誰にだってそういうときはあるよ」
「凌斗は本当に優しいね。ずっと優しい。初めて会ったときからずっと」チャーシューの中にいる瑠奈が寝返りをうったのか、チャーシューはベッドの端へと移動した。
「ねぇ、優しすぎる凌斗くんにお願いがあります。」
「なに?」
「こっちきて。お話しよ」
僕はチャーシューをほどいて布団の中に潜り込んだ。そこには泣いていたのか目が赤い瑠奈がいて、僕はそっと彼女を抱きしめた。
「さっき、初めて会ったときから瑠奈の家に住み着いた夏のことを思い出してたんだ。色々なことしたよね、次の日学校なのに朝方までこうしながらベッドで話し込んだり、料理したり、歩いてスーパー行ったり」
「したね。懐かしい」
「うん、懐かしいなって僕も思った。毎日先も考えないでただただ瑠奈といることが好きで、それ以外のことはどうでもよかったんだ」
瑠奈が僕の左腕を移動させて自分の頭の下に置くと、抱きしめてくれた。
「でも私こんなだよ。仕事がキャパ超えると当たってくるし、泣きすぎて凌斗に見せられないぐらいブサイクだ、今」
「いいんだよそれで、瑠奈はそれでいいの。僕はそんな瑠奈が好きなんだから。僕、イライラすると膝の上を手で擦る癖あるでしょ?本当はそれとセットの癖がもう一個あったんだ。擦ったあと手の平を痺れが引くまで眺めるって癖」
「何その癖、変わってるね」腕の中で瑠奈がクスクスと笑っているのが分かった。
「だよね。自分でもそう思う。そうすると落ち着いたんだ。でもね、その癖は瑠奈と暮らすようになってから気づかない内になくなってた。もうそうやって落ち着かなくても良くなったからだと思う。瑠奈がいてくれると僕は安心して、心から落ち着ける。瑠奈がいてくれれば、僕にその癖は必要ない。だから自然に消えたんだろうね」腕の中にいる瑠奈には見えてないけど、僕の唇は複雑で簡単じゃない感情を蓄えきってプルプル震えていた。
「僕はずっと安心してた。心から落ち着けてた。瑠奈がいてくれるだけでね。そして、それは今も変わらない。僕にとって瑠奈は恋人だし愛する人だけど、落ち着きでもあるんだよ。瑠奈が瑠奈でいて、僕といてくれさえすれば僕はずっと安心して落ち着ける。だからそのままでいいんだ」
「ほらもう1回見てみなさい、こんなにブスだよ? 涙でグショグショのアラサーだよ。いいの、こんなんなのに」瑠奈は腕の中から抜けて、僕を見つめた。
「元気な瑠奈も、怒ってる瑠奈も、泣いてる瑠奈もみんな綺麗だよ。そのままでいていい。だって僕ら、どうやったって一緒にいんだからさ」