人のためには書けていない。
自分のために書いている。
何かを書くということは得てして、人と自分との間に放り出すようなことであるはずなのに、私自身は基本的に自分のために書いている。
文章を書くこともそうだし、メモを取ることもひとくくりである。
自分のためというのは、何かを理解するためにという時もあるし、言い切れないものを発散するときこともある。
ただ、何かを変えたい。とか、誰かへの手紙のような気持ちでとかでは書いていない。自分のための要素ばかりである。
力点は完全に内に向いている。
人のために書くという選択肢もきちんと履行できるようになる方がいい。
もしかしたら、そんな必要はないのかもしれないけれど、いきものがかりの水野さんとか、星野源とかのことを読んでいると、自分のためじゃなくて他の人のために的な要素が出てくる。
それはかなり魅力的にうつる。その背景に何があるのかは定かではない。
もしかしたら、無私的な要素はちょっと本質的ではなくて、本当はただただ純度の問題なのかもしれない。
きちんと自分をさらけ出しきっているのか、きちんと周囲を掬いきっているのか。というあたりの話な気もする。
私個人としては、時に「人のため」と思って書いてきたはずである。それなのに、たぶん基本線として自分のためであった気がする。人のため風の自分のためである。
人のための文章って書けるとっかかりってあるのだろうか。一通り自分のことを書ききったら書けるようになるのだろうか。
何か、手紙とかの形状をとればそうなるのか。
目の前の誰かを想像してそれに沿うような何かを書けるとそうなるのだろうか。
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