言葉の解釈範囲みたいなもの

「軸足のありか」みたいな話。よく憲法改正とかからの連想で思うこと。

言葉で置かれたことは、しばしばその解釈範囲までがその範囲になる。なんというか、バスケのピボットターンの「踏み出せる足」までが、「言葉で意味されたこと」になるのである。

その言葉が表出した瞬間は、様々な周辺要素によって、規定されていて、あまり解釈できる幅はない。ただ、周辺要素が見えなくなると、規定はされなくなる。つまり、解釈できる幅は広がる。

何か規則を作るときにこの「解釈の幅」はかなりのネックである。ルールが適応されるときは、適応される瞬間の”文脈”が加味される。ルールが制定されたときの願いが反映されるとは限らない。
制定された瞬間の文脈が無視されて、適応される瞬間の文脈が加味されると、時に「規則文面にズレが生じている」ように感じることが出てくる。
そこで、文面を直してしまうと軸足の位置が変わる。軸足の位置が変わると解釈で届く幅が変わる。結果として、最初に望んでいたものではなくなってしまう。

これって、変更が改善に見えるという意味で、ちょっと怖い。もちろん、改善的に動いていく変更もあるのだろうけど、最初の望みをきちんとくみ取れずに、変えてしまった場合、最初の望みを壊してしまう可能性が大いにある。
その変更に「望みを壊す意図」がなくても。である。

言葉を、特に情報量の少ない文字の言葉を残していくときには、この軸足の位置みないな意識が必要だし、可能ならば「最初の意図」をきちんと残すことが重要に思った。

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