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理論家の敗北では、?

ちょっとタイミングが遅れてしまったけれど、東京医大の受験に関する話とそこから考えたことについて。

かなりネット上で話題になっていることを観測していた。
批判的な見方は、いくつか種類があったように思う。メインは「男女で差をつけるなんてよくない」。というものであったと思う。

東京医大に関して思うこと
この件に関して思うのは、「外部に明示しない差をつけていた」ことが良くなかった。という点である。
極端に言うと、外部に明示して差をつけてるのならば「そんなコンセプト」として受け止めたかもしれないなぁということである。

この発想は、男女差によっておこる様々なことを助長させるようなものなのかもしれない。ただ、受験という文脈で見た際にはその明示しない不公平性を生んだ点について、大学に対してひっかかりを覚える。


下駄をはかせる背後にある理屈に対して思うこと
別視点で指摘されているのは、この男女における得点差をつけた背景の問題性である。
「女性は辞めてしまうから、やめない男性を優遇する」ような発想である。

少なくとも、「現在計測できる優秀さ」(テスト点などで評価できる優秀さ)よりも「手間がかからないこと」(なんども教育しなくてよいこと)が優先されているように感じた。
”計測できる”という表現はやや悪意があるように感じるかもしれないが、別の評価軸を作れればそれで評価し、「狙った人材」を見るはずである。わざわざ1つの基準にこだわって下駄をはかせる必要はない。ただ、計測可能にできない(もしくは、手間がかかりすぎる)がために1つの評価基準にこだわってる。

一要素
もし、優秀さよりも手間がかからないこと。に重きが置かれているのとすれば、ある種「教育理論の敗北」なのではないか。
新しい人に教育(伝達)がうまくできないがために、優秀である人よりも、手間がかからない人の比重が高まっているように思う。

教育理論というのは、教育する内容というよりは、教育は何であるかとか、どんな風に行うとよいかとかの構造を理論化していくことをイメージしている。
(そんな分野がきちんと存在しているかしらないが)「適度な教育がきちんとできる構造」があるのであれば、もっと単純に優れたものを求められる構造になるのではないか。

実践から離れた教育という要素が考えにくかったり、教育において計測しにくい要素が多いがゆえに理論ぽくならなかったり(惑星の形成理論などに比べると、圧倒的に「ふわっと」したものになりえる。)する。
たぶん様々な計測可能要素をどんどん放り込む。または、数値的でなく納得感が高い要素に振る。あたりの方向性になるのであろうか。

教育に手間がかかりすぎる。ということや、それによって育むことを諦めることも何か嫌である。そこからの離脱も図れるように思う。
教育ってたぶんメディア的な手法的な道具的なものである。道具は大量な人に使いやすくてかつ本来的な要素から外れないものが必要なのではないか。
まったくとっかかりはないけれど、そんなことを考えてみたい。

プラスα
本当は、「優秀<手がかからない」なのか。もしそれが成立するなら、どんな理由があるのかをきちんと考えなければならないのかもしれない。

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