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母親を尊敬できていない話。

マザコンであるという話。

このノートで書いたことのもうちょっと直接的なことをば。
たぶん、私は母親に対して強い理想像と、そんな人に思うように接して欲しかったみたいな願望がある。

理想像は、子どもの意識をきちんと尊重して接していけるような人。である。私の実の母親が、子どもの思いを尊重しなかったかというと、多分そんなことはない。ただ、なんか、もっと「私の思い」を聞いて欲しかった。というような気持がある。

聞いて欲しかったというのは、多分、対等に扱ってほしい。という思いな気がしている。
対等に扱うとかいうとちょっと仰々しい。ただ、きちんと話を聞いて受け止めているような様子をみせてほしかった。

「受け止めたような様子」なんていっているのは、本当はきっちりと受け止めてほしいのだけれど、でもそんなの厳しいだろうな。というどことない予防線もある。

受け止めてほしい。とか書いていて、それと同時に相手の何かもきちんと受け止めたい。受け止められるような頼られ方をしたい。みたいな思いも出てきた。それが母親などのある種の非対称性があるような人であってもである。

自分の提案を作りたいというのと同時に相手の何かもきちんと考えられる対象でありたい。(その中に相手のおかげで居場所を求める的な依存感もあるかもしれないが)相手から願望と道筋の話をされたり、自分でその相談をしたい。

この、「相談をしたい」って実はかなりの理想像の高さなのかもしれない。この人に言えば何かわかるのではないか。というような期待感がかなり大きくあるように思う。

ここまで書いて、ようやく思い起こしましたこと
私は実際の母親に対してあまり「相談したいような思い」を抱けていない。ここが一つの考えどころポイントかもしれない。
良いか悪いかは別にして、理想像があるからこそ、こだわってしまうのである。「大人」に分類される年であるが、いまだに理想を抱きつづけている。

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