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はたらく

石垣りんさんのエッセイ集『朝のあかり』を読みました。
働きながら書くということは、己の軸足をどこに置くかということなのかな、なんて思ってしまいましたね……

『目下工事中』というエッセイが心に残っています。
十五の年から五十三まで働き通した女性が、「とてもがまんがならない」と思って辞めることに。
その人の別れの茶会が開かれるので、「私」は近郊にある会社のグラウンドの隅に建てられた茶室へと出向きます。
“戦前から戦後にかけて働いた者には、会社がこうして、会社の施設を女性に使用させることすらある感慨なしには受け取れないのだ。いい茶室が出来て、という言葉のかげにはそれが無かった時代が腹合わせに考えられている”
この段落、うーんと唸ってしまいました。
無かった時代を知っている、石垣りんさんの世代は、しかしこの施設があとの世代の人により多く利用されることを知っています。
そのことに対して、ヒガミのような気持ちもどこかにあるらしい、と書かれているのを見て、なんとも……苦しい気持ちになってしまいました。
「うれしい」じゃなくて「いいわねえ」なんですね。
自分のためにあるわけじゃない、と思われていて、そこが苦しい。
最後に、「女だけのオサケ」をかたむけるところが、女たちにも楽しみがあるように思われて、救いを感じました。

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