継体天皇と古代亀岡(前編)
こんにちは、たくのぎです。今回は先日SHOWROOMで話させていただいた、継体天皇と古代亀岡そして、亀岡市に築かれた千歳車塚古墳について記していこうと思います。
前置き・継体天皇について
私は大学入学以来、考古学研究会に所属し亀岡を舞台に古墳のフィールドワークを行ってきました。現在は引退しましたが、先ほども記したように引き続き亀岡を舞台に研究を行っています。前置きが少し長くなりましたが、まずは継体天皇について簡単に紹介したいと思います。継体天皇は第21代天皇(大体5世紀終わり頃〜6世紀中頃の古墳時代の天皇)で、日本書紀などによると近江国高嶋郡三尾(現在の滋賀県高島市安曇川町三尾)で生まれたとされています。その後すぐに父が亡くなり、母の地元である越前国の高向(現在の福井県坂井市丸岡町)で育ちます。その後継体57歳の時、先代の武烈天皇が亡くなると当時のヤマト政権のトップ大連の大伴金村に迎えられ、楠葉宮(大阪府枚方市)で即位したといいます。なお、継体天皇は古事記などによると第15代天皇である応神天皇の5世の孫であるといいます。そんな継体天皇ですが、実は武烈天皇が亡くなった後すぐに後継者として立てられたわけではないのです。そこが、今回の話のキモとなります。
倭彦王と亀岡
古事記には記されていませんが、日本書紀には倭彦王(やまとひこのおう)たる人物が存在し、大伴金村はまずこの人物を武烈の後継として立てようとしていたというのです。倭彦王は、丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)の人物で第14代天皇の仲哀天皇の5世の孫といいます。群臣会議で先に記したように後継に選ばれますが、迎えの輿に恐れをなしで山奥に逃げてしまったという臆病な人物として描かれています。では次に、倭彦王と千歳車塚古墳との関係について調べてみましょう。千歳車塚古墳は全長約90mの前方後円墳で、これまでの調査で埴輪の時期から6世紀前半ごろに築造されたことがわかっています。これは、この時期としては丹波はもちろん近畿地方でも屈指の規模です。さらに、築造時期が倭彦王の存命期とぴったり合う(倭彦王の正確な生年、没年はわかっていません)ことから、倭彦王の墓ではないか?とされています。千歳車塚古墳の前後に亀岡地域ではこれに匹敵する規模の古墳はなく、倭彦王はなんらかの理由で外部からこの地に招かれた皇族なのではないかと推察されています。
私論・前編まとめ
これらのことから僕は、この丹波亀岡に当時天皇に匹敵する実力を持つ人物がいたのではないかと考えます。倭彦王は実際には天皇にはなれませんでしたが、継体が大和に宮を置くまで先に記した楠葉・弟国(乙訓、現在の京都府長岡京市辺り?)等に宮を置き、お墓である陵に今城塚古墳(大阪府高槻市)を選んだことを考えると、亀岡に天皇の住まいである宮や陵がひょっとすると置かれていたのではないかと歴史のロマンを感じさせてくれます。
長くなりましたが、今回は継体天皇と古代亀岡(前編)として記してきました。後編ではその後の亀岡のことや、さらに僕が思うことなどを記していければと思います。ここまで、読んでいただきありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?