まなびの作文
私は会社で営業部に所属しており、その中で一番下っ端になる。
過去に後輩が何人もいたが、配置換えになった者以外、みんな辞めていった。
理由はそれぞれ。
退職とは実に悲しい場面である。
新人をどう「育てる」かという話題は、春が来るたびに出てくる話題だ。
人材育成。これは企業における永遠の課題。
ある会社の役員さんに相談している中で、
「ワタナベくん、人を育てるという感覚は持たない方がいいよ。人というのは勝手に育っていくんだもの。だから、その若い社員さんから、君自身が学ばさせてもらっている。そう考えてみてはどうかな?」
と、こう言われたことがあった。
物議を醸したソロ演奏
例えば、イベントを企画したとする。
若い人らと共に作り上げるイベントは、彼らの発想にこちらは気付かされることばかりである。
通常、イベントが終われば反省点をじっくりストイックに炙り出し、次への一歩として改善する。確かにこれは当然のことではある。
しかし、彼らとのイベントは、そういった単純な構図では整理できない。
面白かった点、閃きに驚いた点、不思議に思った点など、反省以外の要素に新たな『発見』がある。
そして、イベントはナマモノ的な要素が多い。
その時々で生まれる発見や問題が変化し、微妙なさじ加減で会場の雰囲気が変わる。
少し具体的に示すと、
あるイベントのある演出で、会場の真ん中で男の子が突然ソロ演奏をはじめた。
しかし、度が過ぎてしまい「うるさいからやめさせろ」とクレームがついてしまった。
彼に、「やめよう」と伝えればその場は収まる。
しかし演出上、彼の演奏をキッカケに演者が加わり最終的に楽団としての演奏となる予定だったことと、彼だけがクレームを浴びてしまっている状況。
また、大衆の面前で自らの演奏を真っ向から否定されてしまった彼へのダメージの大きさ。彼は今後楽器を持つことに恐怖を感じてしまうかもしれない。
これらを考えても演奏を止めることはできなかった。
彼は一体何をしたかったのか。
彼は決して自己満足に演奏をしたかったわけではなかった。
答えはシンプルで、彼は一生懸命に目の前の人を喜ばせようとしていた。
これから起こる出来事の引き金になるために、自分が目立つこと・周りが見えなくなるくらい夢中になること
それが彼の果たすべき役割であり、目の前の人が喜んでくれることだと信じて一生懸命『演じた。』
演奏よりもずっと前から、会場での所作を彼自身とことんキャラクターとして貫き通した。
打ち合わせにはない、彼なりの創意工夫と、孤独との闘いがそこには詰め込まれていた。
このイベントのための、彼の心構えにたくさんのことを学ばさせていただくことができた。
結果的に今回は少し空回りしてしまった。周りを見渡す余裕がなかっただけ。経験をしていけば余裕も生まれる。
演奏だって、練習すればもっと上手くなる。それだけのこと。
クレームに対し、真摯に謝れば許される。怒られたことのない大人なんて、いないんだもの。
(後にその方から「途中でちゃちゃ入れてしまってゴメンね。そういうことがしたかったんだね。演奏、よかったよ。」と有難い言葉も頂けた。)
イベントを通じて、彼らの気持ちに気付かされる。
イベントは1人で完成させられるものではない。
全ては関わり合いの中でできている。
一緒な目標を目指す仲間。
心を一つにできたんだもの。次の機会には、一緒に考えることだってできる。
一緒に次へ進んでいくことが大切。
反省すべきは、
自分の関わり方にミスがなかったのか。そこに尽きる。
「昔がそうだった」から、続ければ良いというワケではない
甘い。と感じられるかもしれない。
私自身はむちゃくちゃに叱られたこともあるし、心無い言葉でけなされたり、見えないところで中傷されたり(ホントは見えてたんだけれど)
それでも今までイベントを続けてきた。
だからと言って、それを風習・文化として引き継ぐべきだなんて思わない。そもそも自分がされて嫌なことを人にはしないなんて小学校の先生に教えてもらったこと・・・。
礼儀や心構えなど基本的なことは備えることができた。
しかし、当時の仲間が皆、今も表現を続けているかと言われれば、
やめていった人間も大勢いる。
教育を踏み間違えれば
人が感じる貴重な瞬間を摘んでしまうことになる。
言葉は時に、暴力になり
自分本位の優しさは時に、可能性に鍵をかけてしまう。
その言葉、本当に相手のための言葉なの?
本当はそう言ってる自分のための言葉なんじゃないの?って。
とかく、しがらみだらけのやりにくい世の中だけど
少々怒られたっていいじゃないか。
失敗したっていいじゃないか。
死ぬわけでは、ないのだから。
そんなスタンスで、今度は新入社員を待とうと思う。
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