春煙
まだ冷えるものの、もうすぐ春の芽が出てくる季節。
その夜は三日月が浮かび、冷たくも優しい風も肌を撫でる。
「五郎も惜しかったな。このような夜に限って早々に寝てしまうなど」
と、縁側に立っていた藤は背後の部屋で寝息を立てる五郎を見ながら呟く。
それも仕方ない。昼間に部屋の掃除をしていたらどうにも熱が入ってしまい、夕餉まで五郎に付き合わせてしまったのだ。自分も少し疲れたものの、何故か妙に目が冴えていた。
薄く雲を引き連れ欠けた月は何とも美しく、もし自分が平安貴族であったならきっと歌を詠まずにいられぬだろうなどと考え、ふと笑みを零す。
しかし寝るには勿体ない夜だ。何かこの夜を堪能する良いことは無いかと考えを巡らせていると、風が止んだ瞬間に"コン"と何かが小さくぶつかる音がどこからか聞こえた。とても小さな音だったが、中庭から聞こえる竹の鹿威しとはまた違う、茶碗同士をぶつけたような高い音だった。そしてその音が何の音か、藤は知っている。
「……ああ、煙管か。懐かしい、そう言えば最近吸っていないな」
そうして五郎を起こさぬようにそっと部屋に戻り、九条屋敷から持ってきた煙管の箱を取り出す。蓋を開けてみれば、綺麗な銀の煙管や火付け用の道具、残ったヤニを落とす入れ物などが収められていた。
あまり元から煙管を嗜む方ではなくたまにしか吸わないため、10年程経つものだがかなり美品だった。
先の"コン"という金属音は、ヤニを落とす際の音だろう。こうした音の響きもまた、粋なものである。
「綺麗な三日月を見ながら煙を燻らすのも悪くは無いな、先にヤニを落とした者も良い趣味をしている」
そこまで言い、ふとその音がした方向を向く。その方向に政継の部屋がある事に気付いたのだ。もしや彼奴も煙管を嗜んでいるのかと思い、箱を手に持ったまま何も考えずに庭に降り、そちらに近付いてみる。
いつもより暗い庭もまた趣ある彩りをしている。しかし昼間との明るさの差に、なんとも落ち着かない。一人だと、尚更。
硬い土を歩いていくと、縁側に見慣れた顔があった。どうやら自分の推測は正しかったようだ。縁側と座敷の境目で軽く足を崩し、座りながら月を見上げている政継を見つけた。片手には朱いさ丹を塗った煙管を持っている。
「お前も月見か、政継」
声をかけると、煙管を吸ったまま目線をこちらに寄越してきた。するりと煙管の煙を吸い込み、燻る煙の香りを感じる。
「寝る前に少しな。そう言う藤もか」
そう言いながら彼は崩していた足を胡座に揃え背を正す。楽にしていて良いと言っても再度崩すことは無かった。
「政継も煙管を吸うのだな」
「気が向いた時にな。こんな夜には吸いたくなるだろ」
「そうだな。私も一緒に良いか?」
「ああ」
縁側に腰掛け、煙管箱を開ける。
細く刻まれた煙草を煙管の先についた火皿に置き、パチンパチンと火打ち石を軽く鳴らして火をつける。散る火花が盛られた刻み煙草に飛び移り、徐々に芯が赤くなっていく。
火は、苦手だ。あの夜を思い出すから。
でもこうした小さな火花の散る様子は何故か見ていて飽きず、色味が変わり煙が薄く上がるのをただ見つめていた。
そうして、煙管を口に咥えゆっくり味わうように吸う。
隣を見れば、同じ様に煙管を吸っている姿があった。ふと気になったのは、煙管の持ち方だ。政継は羅宇(管の辺り)を筆のように摘んで吸っている。対して自分は下から支えるように持っていた。身分によって持ち方が違うという話は聞いたことがあるが、どうやら本当らしい。
「……なんだ?」
相手の手元を見ながらそんな風に考えていると、視線に気付いた政継が問い掛けてきた。我に返り、嗚呼いや……ともごつき次に言うことを考える。素直に煙管の持ち方を見ていたといえば良かったものを、何となく気恥ずかしかった。
「あー……そう、そうだ。もうすぐ桜が蕾を開く時期だな」
必死に言葉を探りながら、庭の植木についた白い花を見て咄嗟に桜の話題を出した。何とか上手くはぐらかせたと思っていた。
「そうだな。……だがあれは桃だ」
…目の前に植えられた木を見ていることに気付いた政継が、私の言葉を訂正するまでの話だったが。
「あ、桃か、そうか……でも桜が開く時期でもあるだろう。月見の次は花見だな」
「庭にある釣殿(つりどの)で毎年やっているぞ。桜を見るならそこが一番良いと聞いている」
「ほう。……政継は花見をしないのか?」
「呼ばれれば行くが自ら進んではしないな。桜は妖力が強いと聞いている」
「なんというか、色々と大変だな……。桜はとても綺麗だというのに」
「そもそも大木は神霊になりやすい。御神体として祀られているところも多いのはそのせいだ。ましてそこまで綺麗な桜の大樹ならば、尚の事」
「はあ……確かに、桜には何か妖しい美しさがあるな。夜桜などは特に」
「……」
政継は目線を落とし、ゆっくり煙を吸う。
つられて、自分も吸い口を咥えた。
「……、昔はそこの庭にも桜が咲いていたらしい。ただ、俺が来る前に植え替えられてしまった」
「それは何故だ?」
「おそらく、俺が本家に戻ったからだろう」
「…そこまでするほど妖力とやらが強いのか、考えたこともなかった。しかし……皆で花見が出来ないというのも、またかなしいな」
桃の木に点々とついた花達を見つめる。
やはり花を見るのは好きだ。この男にこのような感傷はあまり無いのかと思うと、なんだか寂しく感じる。当の本人は、私の言葉に軽く首を傾げながら煙管の火が消えゆくのを見ていた。
コン。
吸い終わったヤニ滓を火皿に落とす。その後薄紙を手に取り、煙管が傷つかぬように汚れを拭き取る。藤はまだ、煙を吸っている。
「…桜といえば。
そういえば昔、こんなことがあったな」
そう切り出し、藤もこちらへ顔を向ける。
「童の時の話だ。ちょうど今と同じくらいの頃になると、俺は離れの屋敷から出てはならぬという令が出されていてな」
「……それは、不吉だからか?」
「そうだな。特に桜の時期はいつもそうだった」
己の脳内によぎる過去の記憶。閉じられた障子に格子窓。日焼け跡一つない畳と廊下。
そしてその廊下にぽつんと置かれた、素焼きの小皿に入ったいくつかの桜の蕾。
「……桜の蕾?政継が取ってきたのか?」
「いや。誰が何故そこに置いたのかは今でも知らないが、俺が屋敷に籠る時期には必ず置かれていた。
薄く水のひいた小皿に、蕾が四つ程浮かんでいるんだ。それが何を意味するのか、考えてもわからなくてな」
「……なら、お前に桜を見せようとしたんじゃないか?水皿の上で咲く桜を」
「さあな。結局、蕾は風で落ちたもので萎んでいたものが多く、一つも咲かなかった。ずっと廊下に置いていたしな」
過去の話を終え、伏せていた目を上げ月を見る。
あの時も、研ぎ澄ました刀身のように細い月の夜だった。
そう思いかけ、今日が自身の生まれた日だと、ふと思う。本来なら日にちまで生まれた日を覚えている者は少ないだろう。しかし毎年、離れで退屈な日を過ごす事になるこの月は、幼心に残っていた。
「それでは政継は、桜の香りを嗅いだことが無いのか」
コン。
藤がヤニを落としながら、そう政継に問いかける。
「桜の香り……無いな。桜に香りがあるのか?あまり聞かないな」
「あるぞ。確かに花一つだけだと薄く分かり難いが、桜の木の下に立つとほんの少し甘い香りがするのだ。春の香りとは、ああいうものを言うのだろうな」
「ほお。気にはなるが、わざわざその為に花見に行くのは未だ少し気が乗らん。上に呼ばれたならば行くが」
「……」
かさかさとゆっくりと煙管を拭く薄紙の滑る音が、政継の手元から聞こえる。
何だかそれは煙管が汚れないようにする心遣いというよりも、自分の痕跡を消し保つ仕草のように見えた。
「ならば、そうだな。
もう一口だけ付き合ってくれぬか、政継」
「もう拭いてしまったのだが」
「また拭けばいい。な?」
「なんだ、まだ何か話したいことでもあるのか?」
「ふふ。煙管をこちらに出してくれ」
そうして置いていた煙管箱を開け、中についていた小さな引き出しを開ける。そこには薄桃の布に包まれた刻み煙草が入っていた。
「お裾分けだ」
「くれるのか?」
「ああ。なかなか手に入らないから、特別だぞ」
刻み煙草をつまみ、政継の持つ煙管の火皿に入れてやる。火打ち石を鳴らして火をつけ、煙を吸う様を眺めていた。
「……?なんだか違う香りがするな」
「桜の花と葉を燻したものを混ぜてある、珍しい煙草だ」
「ほう、桜の?初めて見たな、こんなものがあるのか」
「少し甘くて良い香りだろう?
何か大変な仕事の後や、特別で大事な日なんかに吸うんだ。人にあげるなんて初めてだぞ?」
「そんなに大切だと言うなら、なぜ俺に分けたんだ」
「……。あー……そうだな。わたしの一服に付き合わせた礼だ」
自分の煙管にも同じように桜の刻み煙草を乗せ、火をつける。微かな甘い香りが鼻や口腔に広がり、ゆっくり息を吐く。
政継が好む香りかは分からないが、自分はこの香りが好きだった。何故だか、好きなものを共有してみたくなったのだ。
黙ったまま、二人して煙を吸い込む。
小さな息遣いだけが聞こえる。
そうしてヤニが燃え尽きる頃。
「……?」
視界に何か、小さな白い物が映った。それは政継の方に向かってひらひらと飛び、彼の肩に落ちる。
「……政継」
「なんだ?」
「ほれ、肩に」
「ん、……これは」
それは小さな桜の花びらだった。
政継の手の中で、ゆらゆらと風に揺れている。
「どこかで咲いたか。可愛らしいな」
「そうみたいだな。だが、どこからここまで…」
「…お前の元に来て、花を見せてやりたかったのかも知れぬぞ」
瞬きをしながら政継が顔を上げる。
私の言葉に「まさか」とでも言いたげに。
その顔に、つい笑みが漏れた。
「春が来たな」
私の表情を見てか彼も少し笑い、手のひらに置かれた花びらを夜空に放つ。
それは三日月の光に溶け消えていった。
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