御手玉
暗闇、透き通る思考、何にも邪魔されぬ静けさ。唯一響くのは、衣擦れと神楽鈴の音。
早朝、まだ冷たいこの時間は、1番気分が落ち着くように思う。直立し揺らぐことの無い蝋燭が何者もこの空間を、この時間を乱せぬことを表している。
しかしどんな事柄にも終わりが来る。幼い頃から身についた感覚でその時を感じ、空気と共に分散させた意識を手繰り寄せ繋ぎ止めていく。閉じていた瞼を開き、息を深く吐く。
幼少期、離れの屋敷に閉じこもっていたあの日々から欠かさず続く朝の日課は、西園寺政継という者を形成する要因の一つかもしれないとすら思う。この厄除けを兼ねた瞑想は、それほど深く根付いた習慣なのだ。座布団から降り、蝋燭の火を消し一礼をする。
西園寺家の朝が始まる。
─────
徐々に暖かくなっていく外の空気に、ひよひよと小鳥が梅枝にとまり鳴いている。今日は雲が多いものの陽は差しており、心地よい風が井草の香りと共に吹き抜ける。
藤が西園寺家に療養に来て約十日。今日は瞑想の訓練も剣術の稽古も何も無い、つまりは休日だ。しかし休みとは言え、一度くらい顔を出しておかないと後々何を言われるか分からない為、朝の挨拶だけでもしておこうと政継は廊下を進む。顔を出さない程度で不機嫌になる人の考えは、未だに理解出来ていない。
ちょうど藤の居る一室に着く辺りで、五郎が襖を開けて出てきているのが見えた。
「はい、ではお茶を持ってきますからお待ちを……あ、政継様。おはようございます」
「ああ、おはよう。二人とも起きていたんだな」
「はい、藤様も朝支度を終えたところです。
……藤様、政継様がお見えですよ」
「ああ、聞こえている」
襖の奥から藤の声が聞こえた。声色を聞く限り不機嫌な様子も体調が悪いような様子もない。
襖を開けて見れば、いつもと変わらぬ様子で座って何かをしていた。
五郎は炊事場へ茶を汲みに向かったようだ。休みの日まで人に尽くし働くその真面目さはよく出来たものだなと、頭の片隅で思う。
立ったままでは良くないなと襖を閉めて座布団に座る。そして目の前の藤をよく見れば、なにか裁縫をしているようだった。膝には端布と糸を通した針があり、また傍には何やら重そうな何かが入った布袋がある。
「おはよう、政継。
私の荷を取りに九条の御屋敷へ戻った時に、やろうと揃えておいたまま結局忘れてしまっていたのを思い出してな。……何かわかるか?」
端布を折って端を縫い、きゅうと絞って表裏をひっくり返しまた端に糸を通すと、針を置いて布袋に手を伸ばす。
「おはよう。…何を作ってるんだ?」
「いやなに、大したものでは無いがな。ここにいる間、時間もたくさんあるだろうと思いたって」
藤が重そうな布袋を傾けると、中からいくつもの赤みがかった黒い小さな粒が出てきた。
「ああ、御手玉か」
「ふふ、懐かしいだろう?」
小さな粒、それは御手玉に入れる小豆だった。さらさらと少しずつ縫い合わせた布の中に入れ、最後に口を閉める。
幼少期に自分が過ごしたあの離れにも、御手玉はいくつかあった。何度か投げた経験はあるし、誰かに習ったか自分で思いついたか、同時にいくつも上に投げ落とさないように遊んだことはあることを思い出す。
「そうだな、幼い頃やった記憶がある」
「ほら、歌に合わせて投げあったりしたろう?あんたがたどこさ、とか」
「…いや、その遊び方は知らん。上に投げたりしたくらいだな」
「そうなのか?あまり御手玉はしなかったのか」
そう話す間に、藤は最後の端布に手を伸ばす。裁縫はそれなりに手慣れているようで、ゆっくりではあるが着実に針を通していく。
「まあ、男子だしな。外遊びの方が多かったか?」
「いや、むしろ外で遊ぶ方が少なかったな」
「…ではどんな遊びをしていたんだ?」
「そもそも幼い頃に遊んだ記憶があまり無い、一人遊びをたまにしていたくらいか」
「?…ああ、もしや昔から術の鍛錬をしていたのか?なんだか厳しそうだものな、ここは」
「一応勉強はしていたな。術の稽古はつけて貰えなかったが」
曖昧な回答に、藤は訝しげに首を捻る。
「……。そういうわけでもなさそうだな、幼い頃は何をしていたんだ?」
「離れの屋敷に居た。その窓から屋根が見えるだろう」
丸くくり抜かれた小窓を目線で指す。小さな林や岩を挟んだ先に、並ぶ瓦がちらりと見える。わざわざ本家から隔離しておきながらこうして離れが見える位置に窓があることに、自分は常に監視されて居たのだなと改めて思う。思うだけで、そこに今更怒りや悲しみはない。今、自分はここに居て、あの離れにはいないからだ。
「……ここからだいぶ離れているじゃないか。あそこにはどれくらい居たんだ?」
「十五までだな」
「十五……かなり長く居たのだな」
先と同じように小豆を入れ、口を締める。最後の一つが終わったようだ。
何か少し考えふけっている様子の藤に、幽閉されていたことを説明してやった方がいいかと口を開きかけた時。
「藤様、政継様、お茶をお持ちしましたよ」
と五郎が襖の先から声をかけてきた。
「ありがとう、入りなさい」
「はい」
「俺の分までいれてくれたのか、ありがとう」
「もちろんでございます」
「五郎も、もうゆっくりしていなさい。今日は休みだ、気を張る必要は無い」
「え、は、はい……。あ、御手玉が完成されたのですね」
「ああ、ほら」
ぽん、と藤が御手玉を五郎に向けて放る。
「わっ…!」
「おお、落とさなかったな」
「…なんだか懐かしゅうございます、私はあまりこういうものでは遊びませんでしたが……」
若草色の御手玉は、五郎の手の中に上手く収まった。
五郎もその感触が懐かしいのか手の中で転がしながら表情を緩ませている。
「ほら、政継にもいくぞ。片腕でも取れるだろ?」
そう言うと、こちらが何か言う前に御手玉を投げて寄越す。
「っと……!」
なんとか落とさず掴むことが出来た。
茜色の柔らかな布で出来たそれを、五郎と同じように手の内で転がしてみる。
なるほど、確かに懐かしいとは思う。
「よし、上手くいったな。たまにはこうして童心に帰るのも悪くは無い。…五郎はまだ童だがな」
「もう十になりますし童では……」
「私からすればまだまだ幼子だ」
くすくすと笑う藤と、少し困った様子の五郎を見比べる。確かに藤から見れば五郎は幼子に等しいだろう。
手の中の御手玉を何回かぽん、ぽん、と投げ浮かせる。持っているとつい昔のように投げたくなってしまうというのも、御手玉というものの持つ力なのか、はたまた自分の持つ記憶の作用か。
「昔は五つまで投げられたものだがなあ、流石に無理があるか」
藤は手元にある三つのうち二つを手に取り、交互に上へ投げる。中の小豆が擦れ合う小気味良い音が鳴る。
「五郎、その一つを投げ寄越してくれ」
「えっ、これを……いつ投げれば良いのですか?」
「好きなときで構わん。ひいふうみ、で投げてくれ」
「は、はい……では…ひい、ふう、みっ!」
「っ、よし、上手くいった!」
藤は今三つの御手玉を器用に投げている。
「ほら、次は政継の番だ。同じように投げてくれ」
「ああ、大丈夫そうか?」
「昔は出来たんだ、きっと大丈夫だ」
その返答に頷きつつ、五郎がしたように数えて御手玉を投げる。
「っとと……!ふふ、何とかなった」
「わあっ、藤様すごいですね……!」
「おお、よく投げられるな。結構難しいだろ、これ」
「昔よくやっていたからな。…く、しかし流石にこれ以上は苦しいか……」
「挑戦してみたらどうだ?案外出来るかもしれないぞ」
「最後の一つ、投げましょうか?」
「そうだな、挑戦してみるか」
何度か落としかけながらも四つの御手玉は輪を描いて上に投げられる。大人でもなかなか難しいことだろうと、素直に感心した。
「では、藤様いきますよ。ひい、ふう、みっ!」
五郎が最後の御手玉を藤の傍から広い、先と同じように投げ入れる。なんだかいつもより明るい声色だ、遊びを楽しんでいるのだろうか。
「ぐ、やはり難し…あぶっ!」
「あっ」
「くう、やはり無理だったか」
「ふ、ははっ…大丈夫か?」
「笑うな!本当に難しいんだからな!」
やはり五つは難しかったようで、藤の顔面に投げた最後の御手玉が落下した。そしてその瞬間全ての御手玉が膝元に落ち、藤は悔しそうに眉をひそめている。不格好なその様子につい笑いが漏れてしまい、藤はさらにへそを曲げてしまったようだ。
「御手玉って、こんな風に遊ぶんですね。見たことはありましたが、遊び方はよく分かりませんでした」
「投げることすら知らなかったのか…皆あまり遊ばなかったのだな」
「俺もこれくらいしか知らんな」
「…じゃあ、昔姉さまから教わったやり方を教えてあげよう。結構難しいからな?まずは五郎から、政継は見ていてくれ」
藤が五郎に向き合い、御手玉を二つ用意すると、お互いの右手に持たせた。
「簡単に言えば、歌に合わせて片手で御手玉を相手の手に投げるのと同時に、相手から投げられる御手玉を落とさず受け止めるんだ。やってみた方が早いな」
投げると同時に受け止める。単純なようで結構難しそうだった。慣れてしまえば簡単だろうが、幼子の遊びにはちょうどいい難易度なのだろう。
何回か練習していると、五郎も上手くいくようになっていた。
「もうほとんど出来ているじゃないか、結構頭が混乱しそうなものだが」
「うん、五郎は飲み込みが早くて上手だな。じゃあ数え歌に合わせてゆっくりやってみよう」
「は、はい」
そうして、藤が息を吸う。
「"
ひとりで さみし
ふたりで まいりましょ
みわたす かぎり
よめなに たんぽぽ
いもうと のすきな
むらさき すみれ
なのはな さいた
やさしい ちょうちょう
ここのつ こめや
とおまで まねく
"」
ゆったりとした歌声だ。そういえば、人のこうした歌声を聞くのは久しいかもしれない。和歌とはまた違う、なんだか柔らかい歌い方だと思った。御手玉を投げやすいように歌っていたからかもしれない。
「…落とさなかったじゃないか!やったばかりなのに上手だな、五郎。昔の私は慣れるまでもう少しかかったぞ」
「い、いえそんな、私ももう十ですし…でも、こうして人と遊ぶのも楽しいですね」
「だろう?子どもは本来、心ゆくまで遊ぶべきなんだ」
五郎は綻んだ笑顔を藤に向け、藤はそんな五郎の頭を撫でている。
「さ、次はお前だぞ政継。…しかし片腕だしな、どうしようか……そうだな、表裏にすればいけるか」
「おもてうら?」
「ああ、基本は歌に合わせて御手玉を上に投げるが、手のひらと手の甲で交互に受け止めるんだ。
数え歌の数が変わる歌の頭で、同時に御手玉を投げ、私と政継の御手玉を交換する。そして上へ何度か投げ、また交換する。これなら片腕でも大丈夫だろう?」
説明をしながら手に御手玉を乗せ、藤の手が御手玉ごと俺の手を挟んで裏返す。
つまりは"ひとり、ふたり、みわたす……"という歌詞の時に御手玉を投げあって交換し、それ以外の時は手のひらと手の甲でその場で投げているということだろう。聞いたところそこまで難しそうではない。…片腕で出来ることが限られているからだろうが。
「ではいくぞ?落としたら駄目だからな」
「練習はなしか?」
「すぐ覚えられるさ、お前は子どもじゃないからな」
「まあ、そうか」
なぜか強気に笑う藤と、その後ろで"私は童では無いのに…"とでも言いたげに見ている五郎の顔が見えた。
そして、また藤が歌い出す。
やはり難しくないとは言っても、いきなり始めるとなかなか神経を使う。普段御手玉なぞ使わないから尚更だ。落とさないよう目線を外さず、投げる時は少し高めに投げた。その方が藤が受け取りやすそうだと、やってみて思ったから。
一人で寂し、二人で参りましょう…妹の好きな紫、すみれ……歌の詞に込められた意味は簡単な言葉だからこそ分かり難い、そもそも数え歌に意味があるのかも分からない。
しかし、何となく藤がこの歌を好きなのだろうと思った。そして、亡き姉から何度も聞いたのだろうとも。
「……おお!初回から上手くいくとはな。御手玉は案外扱いが難しいから、簡単な遊びでも割と落としてしまいがちだというのに」
「ああ、案外難しかった」
「政継様、片腕でも綺麗に投げられていましたね」
なんとか落とさずに投げることが出来た。今更、藤は俺と同じようにしたかったのか、片手を背に隠していたことに気付いた。
「ふふ、大人でもこうして人と遊ぶのは楽しいだろう?もっと難しくすることだって、他の歌でやることだって出来るんだ。そういう所から誰かと一緒に考えると、一日があっという間にすぎる」
一日があっという間にすぎる、という感覚を幼少期に味わったことが少ないなと改めて考えた。基本的に離れの中は退屈であり、身体作りをしていても時間があっという間だと感じたことはほぼ無かったように思う。
だから、少し興味が湧いた。
手の中に残った御手玉を転がす。
「ふむ、どうせこれからこの家に居るし暇な時もあるだろうからな、今日は3人で遊ぼうか。次は政継も腕を気にせずやれるものにしよう、な?いいだろう?」
「私も、遊びたいです…!」
そう言って機嫌よく笑っている藤に、年相応に綻んだ表情の五郎が答える。
自分も特に断る理由もない上に、純粋にやってみたい気持ちもあった。
「……ああ、いいぞ」
この休日は、遊びの一日になりそうだ。
────
「……しかし、なぜ九条屋敷でわざわざ御手玉を作ろうとしたんだろうな、私は」
日が落ちかけた夕刻、藤がそう呟いた。
「屋敷で一人、御手玉遊びをしようとしたわけでは無かろうに」
そう首を傾げる。
「さあな、なにか理由があったんじゃないか?忘れているだけで」
「忘れている、か……」
「何故でしょう…私には見当もつきません」
「うぅん。まあ、懐かしくてつい気が向いただけかもしれないな」
そうして御手玉を集め、小豆が入っていた布袋に入れた。
「また、一緒に遊ぼう。次は真剣勝負になるものでもやろうな。負けないぞ」
「は、はい……!私も頑張ります」
「俺だって勝ちを譲る気はないぞ」
「ふ、どうだかなあ」
得意げに微笑む藤の顔は、天月の屋敷で剣を交えた後の夜、月明かりに照らされながら人の傷を再度押してきた時の、あの表情と同じだった。
またこちらも少し顔を緩ませる、あの時と同じように。
「俺はそろそろ戻る。明日はまた忙しいぞ」
「ああ、おやすみ政継。今日は楽しかった」
「おやすみなさいませ、政継様」
「ああ、おやすみ藤、五郎」
そうして藤の居る部屋を後にした。
長い廊下を渡る間、暗くなりつつある外に離れの屋根がまた微かに見えた。
「……"ひとりでさみし"、か」
今更、何かを感じたり浸ったりする訳では無い。特別何かを強く思う訳でもない。
ただあの歌を今日一日たくさん聞きすぎて、覚えてしまったのだ。
あの柔らかい感触とゆったりした歌声と共に、ただ、覚えてしまっただけだ。
終
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