打ち明けても許されるという幸せに慣れること。
私の母がマトモに話を聞いてくれた事は、ない。
厳密には全くないわけではないが、それは、たまたま母自身が日頃「不満」に思っている事と合致した場合のみである。
それも、殆どは「男ってこういう所バカだよね!」とか「芸能人の○○ってブスだよね!」等、誰かの悪口のみである。
それ以外は全く頓珍漢な反応しか返ってこないし、それどころかだいたい訳の分からない事で私が怒られることになるので、共感してもらえそうな事(誰かの悪口)以外は母に話さない・相談もしないことを小2ぐらいで決めた記憶がある。
例えば、
私「幼稚園の先生が、○○は◻︎◻︎なんだよって教えてくれたよー♪」
母「あぁ、あのブス(先生)ね(笑)ブスの言う事信じるとアンタもブスになるよ!?服のセンスもないし恥ずかしくないのかしら!?」
私「今日学校でこんな事があって…」
母「ちょっとアンタ、ニンニク臭いわよ!?子供の給食にニンニク入れるなんてふざけんじゃないわよ!?あぁ臭い!寄るんじゃない!」
といった具合である。
毎日全てがこんな具合で育ったので、私は「人が真面目に自分の話を聞いてくれる」事に慣れていない。
日常の全っっく些細な相談事であっても、わたしが誰かに何かを話すときはだいたい「意を決して」話しているのである。(そうは見えないと思うけれど)
「受け容れてもらえない」ことを前提で生きていると何が起こるか。
「受け容れてくれない」人ばかりを、身近な人間関係(友人や恋人等)に選ぶようになるのだ。
最初のうちは、「話を聞いてくれるなんて素晴らしい人だ」と思う。
※母よりも話が出来ない人はほぼ居ないので、ほとんど全ての人は私にとっては「分かってくれそうな人」に見える。
しかし結局、その人にとって都合が悪い事だったり私の真の弱さ・または強さ・が露呈してくると、受け容れてもらえずに私はまた落胆する事になる。
落胆して傷付きたくないから、受け容れて貰えなくても自分がダメージをあまり受けない程度の相手(←言い方が悪いが)としか近い関係を築けない。
…という随分と悪循環な生き方を、かなり最近までは、していたように思う。
それでもその時なりに「よりマシな環境を」と模索してきた自負はあるけれど。
2020年秋現在、これは随分と改善されたと思う。
いま私の身の回りは有り難いことに、
「ちゃんと話を聞いてくれる」
「些細な事で人格否定してこない」
「私の真の強みを認めてくれる」
そんな人に多く囲まれている。
三番目の「強みを認めてくれる」は意外かもしれない。
しかし私の体感的には、
「弱さをさらけ出す」ことよりも「強さをさらけ出す」事の方が長年ずっと抵抗があったのだ。
(これは直接的には、歴代のパートナー達が私の能力を妬むタイプが多かった事に起因している。が、それも元を辿れば親との関係に原因がある)
些細な話を聞いてもらえる。
弱さを、強さを、さらけ出しても許される。
これは当たり前の事ではない。
しかしそんな素敵な人間関係はどこかに必ずあり、自分で見つけていけるのだ。
あるんだけど、「受け容れてもらえる」事にまずは自分が勇気を出して慣れていかないと、なかなか見つけられない。
ニワトリが先か、タマゴが先かみたいな話ではある。
生きている限り人間関係に完成などないから、またこの先縁が切れる人もいれば繋がる人もいるだろう。
たくさん縁が組み変わるタイミングは「自分のアップデート」と認識している。
アップデートを繰り返しながら、より幸せを目指せる環境に身を置きたいものである。
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