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短編【木瓜の花が咲く頃に】小説

美代子みよこさん!」
「はいはい」
「水虫の薬、どこいったかな」
「知りませんよ。いつもの所にちゃんと置かないから、こうなるんですよ」

おかしい。私の記憶に間違いがなければ、昨日、テレビ台のいつもの場所に置いていたはずなのに。NHKのニュースや相撲を見ながら足の患部に水虫の薬を塗布して、もとの位置に戻す。そう決めていたのに。そういう些細な物忘れから認知症は始まると聞いた事がある。私もついに…。と思っていたら。

「ああ!おじいちゃん、ごめんなさい。さっきテレビ台の埃を拭いて」

水虫の薬を食卓の上に置いたんだったと美代子みよこさんは言った。長男の嫁の美代子みよこさんは、私の事をボケ老人だと思っている節がある。私ももう八十九歳だ。たしかに時々、物忘れをする時もある。だからと言ってボケ老人扱いをするのは如何なものか。美代子さんは働き者で、実に良い嫁だ。三十三年前に夫が事故死して以来、この家に留まって私の面倒をみてくれている。それには感謝している。だが、ちょっとした物忘れでも、ボケ老人を見るような目付きで私を見る。それが気に食わない。だから本当にボケたふりをして美代子みよこさんを困らせてやろう。と、今朝思いついた。

美代子みよこさん!美代子みよこさん!」
「はいはい。なんですか?おじいちゃん」
美代子みよこさん。朝ご飯はまだかな。腹が減って腹が減ってしょうがないんだが」
「あら!おじいちゃん、ごめんなさい。まだでした?ごめんなさい。今すぐ準備しますから」
「いや、あの、美代子みよこさん」
「すぐ出来ますから」

そう来たか。私は今朝、ちゃんとご飯を食べた。本当に私がボケたと思っているのか。だんだん腹が立ってきた。

「出来ましたよ、おじいちゃん。はい、朝ご飯」
「ん?何だこれは?私は今朝、食べたよ」
「え?召し上がりました?ごめんなさい。てっきりまだかと思っちゃった。すみません。片付けます」

今の目だ!あの目は私の事をボケ老人だと思っている!実に腹がたつ!

美代子みよこさん!!」
「はいはい」  
「朝ご飯がまだ何だが!」
「あら!おじいちゃん、ごめんなさい。まだでした?ごめんなさい。今すぐ準備しますから」
「おい!美代子みよこさん」
「はい」
「私を馬鹿にしているのか?」
「はい?」
「今朝、私は朝ご飯を食べたぞ!」
「え?食べました?すみません。ところで、どちら様ですか?」
「ん?」
「貴方は、誰ですか?」
「み、美代子みよこさん?」
「すみません。おじいちゃんのお友達ですか?」

美代子みよこさんは、どこを見ているのか良くわからない虚な目で私を見つめていた。

#2

「と、いう事なんですよ、先生。美代子みよこさんは、一体どうなってしまったんですか?」
「ん~若年性アルツハイマーかな~」
「若年性アルツハイマー?という事は、美代子みよこさんはボケてしまったんですか?」
「いや、ちゃんと診断しないとわからないから、今度病院に連れてきてくれるかな?」
「解りました。じゃ、失礼します」

肩を落として清水しみず安太郎やすたろうはケアマネジャーの尾道おのみち圭子けいこと一緒に診察室を出て行った。
その姿を心配そうに看護師の阿部あべ理津子りつこが見送って言った。

「先生」
「ん?」
「大変ですね、あのおじいちゃん。自分よりも年下の痴呆症の介護をしないといけないなんて。介護問題もここまでくると、なんか切ないですね」

脳神経内科医の蓬莱ほうらい通彦みちひこはロイド眼鏡を外してマイクロファイバー素材の眼鏡拭きでレンズを軽くこすりながら言った。

「あのおじいちゃんね」
「はい」
「一人暮らしなんだよ。来年のニ月ごろ、『木漏日こもれび和菓子わがし』っていう介護施設に行く予定なんだ。」
「そうなんですか。ニ月ごろ。…木瓜の花が咲く頃ですね」

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水虫とミサイル

宇宙の芸術

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