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短編【太宰、現わる】小説

#1

幽霊の存在を信じるか信じないかで言えば私は全く信じない。四十五年生きてきた経験から言わして貰うが幽霊などというものは、愛や希望や恐怖や絶望と言った『概念』としては存在するが、水や空気や電波や重力と行った『物理的』に影響を与える物としては存在しない。

愛も希望も恐怖も絶望も人によって有ったり無かったりするが、水や空気や電波や重力は人によって有ったり無かったりはしない。何故なら愛と希望と恐怖と絶望は人間の頭の中で思考された『概念』であり、水や空気や電波や重力は地球上で起こっている現象や物質だからだ。

だから心霊現象と言うのはあり得ない。幽霊を見たり幽霊に囁かれたりするのは、全て脳味噌の中で起こっている幻覚に過ぎないのだ。

だから今、私の枕もとに立っている男は幽霊では無い。

「お願いがあります」

今、見えているのは幻覚だし聴こえる声は幻聴なのだ。

「どうか僕の話を聞いて下さい」

その証拠に隣で寝ている妻には何も聴こえていないし見えているのは様子も無い。

「お願いします。僕の話を聞いて下さい」

だから今、見えている物、聞こえている物は全て私の脳味噌が作り出した、

「ちょっとでも良いから聞いて下さいよ!」
「うるさい!黙ってろ!」
「うわ!どうしたの大声だして」

私が思わず出してしまった大声に隣で寝ていた妻が起きてしまった。

「ああ、ごめん」
「変な夢でも見たの?」
と妻。

「ごめんなさい」
と私の幻覚。

「いや、なんでも無い」
「貴方が無視をするからつい」
「もう。明日も早いんだからびっくりさせないでよ」
「少しは僕の話を聞いて下さい」
「すまない。・・・なぁ」
「僕は太宰治です」
「何よ」
「太宰治なんです」
「お前、何も見えないよな。そこに誰もいないよな」
「ええ?変な事言わないでよ、もう。おやすみ」
「おやすみ・・・」

ん?今、何て言った?この幻覚、今、

「あ、初めて応えてくれましたね。僕は太宰治です。太宰治の幽霊です」

太宰治。私が見ている幽霊、いや幻覚は自分の事を太宰治だと言った。

「そうなんです。太宰治です。あのう、お願いが有るんです。お願いだから聞いて下さい。僕の話を」

#2

枕もとに太宰が現れてもう一週間が過ぎようとしている。

「考えてくれましたか?」
「あのぅ。やっぱり私には荷が重くて」
「大丈夫です。僕の遺志を受け継いでくれるのは貴方しかいない」
「でも、どうして私なんですか?」
「貴方は僕の、この太宰治の大ファンでしょ?」

ファンどころかフリークだ。私は太宰治に関しては誰にも負けない。

「僕は日本中の、いや。世界中の太宰フリークを見てきました。しかし貴方ほどのフリークを見た事がない。だから貴方に書いて欲しいんです。僕の遺作『グッド・バイ』を。ああ、もう朝になってしまいました。今日の夜、返事を聞きに伺います。それでは、それまでグッド・バイ、バイ、バイ、バイ…」

バイ、バイ、バイ……。目を覚ますともう朝だった。枕もとに太宰の霊が現れて一週間になるが未だに信じられない。太宰治。三十八歳で愛人を道連れに玉川上水で入水自殺で命を絶った小説家。その時、新聞で連載していた短編小説が『グッド・バイ』。

結局、太宰が連載途中で自殺をしたため十三話で完結する事なく終わってしまった。

その未完成の小説『グッド・バイ』の続きを書けと太宰の霊は言っているのだ。この私に!今はしがないサラリーマンをしながら大学生の息子と高校生の娘と更年期の妻の為に働いている、この私に!

これでも昔は小説家を目指していたのだ。こんな私に、あの太宰先生が直々に執筆依頼をしてくるなんて、この上もない僥幸があるだろうか!無いね!太宰フリークの私にとってこんな光栄な事は無い!

私は一日中、太宰先生の事ばかりを考えていた。そしてその日の夜。布団に入り深夜二時を過ぎたころ。

「考えてくれましたか?」

太宰先生の霊が枕もとに現れた。

「はい。私でよければ…」

私は太宰先生の最後の短編小説『グッド・バイ』の続きを書くこと約束した。

「有り難う。勝手に自殺しておきながら、僕は最後の小説が途中で終わってしまった事を悔やんでいたんだ。僕にはまだまだ小説のアイデアがある。どうだろう、僕のアイデアをあげるから、貴方の言葉でその小説も書いて見ませんか?貴方は昔、小説家を目指していたんでしょう?」
「ええ!いいんですか!太宰先生の作品が書けるなんて、こんな嬉しい事はありません」
「ただし、生活の全てを小説に捧げなければいけないよ。会社も辞めて、時間が許す限り小説に打ち込むんだ。大丈夫心配はいらない。小説のアイデアは死ぬほどある。貴方さえその気になれば、直ぐに文壇の仲間入りだ。お金だってドンドン入ってくる」

私は小説家になる決意をした。


「アナタ!会社辞めたって、どうゆう事!ローンだってまだまだ残ってるのに!」
「大丈夫大丈夫心配するな。小説家になって稼いでやるから」
「小説家?何を言っているの?」
「何だその顔は?私には太宰先生が守護霊となって見守って下さっているのだよ。さて、会社も辞めてスッキリしたし。小説でも書いてみるか!」

妻が呆れ果てた顔で私を見つめている。心配することはない、妻よ。私の文豪としての成功は約束されているのだから。うだつの上がらないサラリーマン生活よ、グッド・バイ。

#3

『人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また、「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。』——太宰治。

僕は小説家、太宰治。ではない。何処にでもいる平凡なただの幽霊。あの男は幽霊の存在を信じない。信じるやつは馬鹿だと思っている。だからちょっと凝らしめてやった。でも、こんな嘘に簡単に引っ掛かるなんて。ちょっとクセになっちゃったなぁ。次は誰のふりをして愚かな人間を騙そうかなぁ。

⇩⇩別の視点の物語⇩⇩

作者の気持ち

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