映画から読み取る時代: 新海誠監督「天気の子」
【ネタバレあります!!】
ほぼ公開日に観た新海誠監督の「天気の子」ですが、
ネタバレがあるため、書いたものを一般には公開してきませんでした。
一通り、波も落ち着いたところで、
載せておこうと思います。
自分たちが生きていく、ということに伴うとても大切なことが含まれていると感じました。レビューの形で書いていますが、時代にとって大切な問いが含まれていると感じています。
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まずは当たり障りのないところから言うと、
いい映画でした。
「君の名は。」が新海誠監督の以前の作品に比べて、破格にエンタメ色の強くなった演出の中に、ガンガンとスピリチュアルなメタファーを放り込んで、それが神がかり的に調和して作品自身が作家の意図を超えて何かを語り始めたような、まぁ、数十年に一度の作品だったのに対し、今回は、「人間、新海誠」の戦いが見えた作品だったように感じました。
僕自身は、新海監督が「どエンタメ」と自分で表現しているわりには、以前の新海色に寄せてきていると思うし、そういう意味では、エンタメ的な要素は成功していない部分もあるように感じたけれど、全体的にはちゃんと感動させてくれる、かなりの良作に仕上がっていると思います。興行収入もいいとこまで行くだろうと思うし、エネルギー的にも観る価値のある作品だと思います。
====※ここからは深くネタバレします。=====
野田洋次郎氏も「攻めてる」と表現していたように、
ラストは、かなり議論の的になるだろうと思います。
僕は端的に言えば、映画的にはズルいと思いました。
この映画は、「君の名は。」で描き始めた、
「運命を自分の意志で切り開いていき、その先に新しい運命に出会う」そういう物語の次の段階だと感じています。
新海監督は、以前の作品では、どちらかというと、
どうしようもない運命を超えられず、
それでもその運命を、痛みを抱えながらも生きていく、
そのどうしようもない悲しさを描くことが多かった。
それが君の名はで転換しました。
もちろん、それは、彼だけの功績ではなく、
周りのスタッフとの相互作用で生まれたことだと思います。
「君の名は。」は、
未曾有の自然災害に翻弄されるはずの運命を変換する物語で、
それを乗り越えた先に自分の運命の相手とも言える存在と出会うという、いわば冒険物語の王道とも言えるストーリー。
それが男女が入れ替わるというベタな設定、ねじれる時間軸、相手の存在を忘れてしまうという設定・・・
それらが、いわばうまくカルマのメタファーになっていて、そこにRADWIMPSの「前前前世」の曲と歌詞が重なって、一度も前世の話をしていないのに、これは、人生を超えたところにある物語だということが読み取れてしまう構成になっている。
そして、最後のシーンを頂点として、大切な相手を通して、忘れてはいけない、「自分の本当の名前」を思い出す、
そういう時代が始まったという、高らかな宣言でもありました。
私は、いろんな批判があれ、あの映画は、一つの時代を見事に切り開いた作品だと思っています。
今回の作品は、そういう意味では、ああいう神がかり的な綿密さはありません。
設定はうまく構成されていますが、絡み合い切らず、重層的な意味も意図しただろうよりも機能していないと思います。
音楽も、あまりにも表面的に響いてくるところもあって、エンタメの奥に置くべき何かを、作り手は、本当の意味ではつかみきれなかったのだろうと感じました。
それでも、この映画が、「君の名は。」の次の段階を描こうとした作品だと思うのは、「自分の運命を切り開く時に、その影響は世界が受け止めることになる」というその大切なところをテーマにしているように感じたことです。
帆高は、あまりもエゴイスティックに、自分の願いを叶えようとします。
それがお得意の美しい映像と、若さ、恋というモチーフの中で、
ある意味、若さの中にある強さが美しさに昇華している。
そこにあるのは、世界がどうなろうと大切な人を守る、とか、大切な人を手に入れる、とか、そういうまっすぐな想いです。
作品としての説得力としては、
人柱という言葉を使い、彼女を助け出すことへの葛藤を克服しようとしています。
しかし、その行為によって、世界は癒されず、
2人の少年少女の想いだけが叶えられることになります。
そこには、自己犠牲の色は全くなく、
清々しいまでの、自己の欲求の肯定があります。
それに、「大切な人を守る」という人の根源的な感情発露のポイントを仕組むことで、強烈な共感を引き起こすことにも成功しています。
私が、この映画の描き方がズルいと思うのは、
彼らが叶えた願いの代償を引き受けた世界は、いわば、「東京がゆっくり水に沈む程度」である点です。
このテーマは、実は、本当に強烈に描こうとすると、
「大切な人を守るために、誰かを殺すことになったとき、自分はどうするか」
というテーマになるはずです。つまり、「自分の願いを叶えるために人を犠牲にしていいか」というテーマであるはずなのです。
あれが、東京に雨が降り続けるという設定でなく、人柱にならなければ、原発が爆発するとか、何百万人が死ぬとか、そういう設定だったとしたら、彼らは、もっと違った葛藤に巻き込まれたはずです。
このテーマは、この問題に直接繋がっているはずです。
あまりにも使い古されたテーマですが、何度も語るべきテーマでもあります。
それくらいおおきなテーマを扱うときに、設定を、ある意味、迷惑をかける度合いを軽めにして、その葛藤を乗り越えさせてしまっていることに、私はズルさを感じたのです。
「愛する人が、人柱になるなんておかしい!それを救うためなら、東京に雨が降り続くことくらい、いい!」
そりゃ、僕だってそう思うと思います。
でも、
「愛する人が、人柱になるなんておかしい!それを救うために、原発が爆発して日本が死の国になっても、いい!」
と思える自信は正直ありませんし、
それが、
「愛する人を救うために、俺はお前を殺す」ということすら、
自分にはできる自信はありません。
つまり、ここは、
「自分が選ぶことの結果を、自分がどこまで引き受けると決められるか」
という、問題です。
これは、夢を追いかけようとし始めたとき、誰もがぶつかるポイントです。
誰かを傷つけるかもしれない自分の望みを、私は叶えるべきなのだろうか、
ということです。
それを、「いい!」と言い切ってしまえるかどうか、
僕にはまだ確信がありません。
何より、この映画のもう一つずるいところは、
それを、
「もともと狂っていたのだから」
とか、
「もともと海だったのだから」
とか、
そういう言葉で観客の葛藤を取り除く仕掛けになっていることです。
そのプロセスで帆高の葛藤は十分な強度で描かれていません。
主人公たちの葛藤がそれで癒されるわけがないことは「説明されて」いますが、十分に「描かれて」はいません。
しかし、観客の中にある葛藤を軽くすることには成功しています。
そこです。
僕自身は、あの映画の落とし所としてあるべきだったのは、
彼らが「自分自身の願いと世界の願いを同時に叶える地点を必死に探すこと」だったと思います。
そうでなければ、いつまでも、自分の願いと世界は分離したもので、世界は自分たちの願いを邪魔する存在、乗り越えるべき存在でしかありません。
そこには、常に葛藤が存在します。
そうではない。
大切な人も、世界も救う方法を考えるのが、
私たちのすべきことだと僕は思います。
究極の選択を迫られるより前に。
新海誠は、世界を美しく描ける作家です。
美しくないはずの世界や感情すらも、
センチメンタルなまでに美しく描いていける作家です。
だからこそ、もう一段行って欲しかったというのが正直なところです。
この選択は、ある意味新しい時代の選択です。
「人に迷惑をかけても、自分を大切にする」
ある意味で新自由主義的な新時代の選択です。
ある意味で、新しい時代の自我を担った私たちが、
できるようになった選択でもあります。
人柱なんてならなくていい。
誰かのために自分を犠牲にしなくてもいい。
それは、さまざまなスピリチュアルな場面でも強調されます。
しかし、それは、
人が自分の自我に気付くまでの方便です。
自我を見失っている時に、
自分を発見すること、
自分の本当の望みを見つけること、
自分の本当の望みに対して、どんな障害を物ともせずに立ち向かうこと、
それは、新しい時代の私たちには必要なことです。
しかし、歩みだしてすぐに、他者の存在に出会います。
その時に、私たちは、どうするのか。
そこにこそ、これからの時代を切り開く鍵があるはず。
僕は、今回、そこに気づいているはずの新海監督が、
作品の中で、答えを描ききれなかったし、
答えにたどり着いていないことを正直に表現することもできなかった、と感じました。
それが、ズルい、と感じた部分です。
僕は、自分の願いを叶えるために、
それを邪魔する他者に銃を向けることが肯定されるとは思えません。