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変人と凡人

 僕は自分のことを「変な人間」だとも「凡人」だとも思っていない。
 ばっさり言わせてもらおう。日常の中で自分や他人を形容するのに「変」とか「凡」とかつけるのが嫌いだ。

 自分のことを「凡人」という人は一見謙遜しているように見えるが、寝転んで立っている人間を転ばせているだけである。よくいわれる、
「あー私は凡人なんでそんな考え思いつきもしませんでした」
 「凡人」という言葉にかまけて「発想する」努力をしていない。悔しがれや、と思う。
 その人なりの受け身の取り方なのかは知らないが、それをわざわざ言語化して伝えることに完全に悪意を感じる。「君と僕とは住む世界が違うから」と、へりくだってきたくせに上から一線を引かれ拒絶される。なんともなんともだ。

 他人に「変人」という人、自分のことを「変人」という人。それも苦手である。
 確かに世界には本当に「変人」がいて、それが本当の意味で褒め言葉になる場合があるが、日常的な話なのでその場合を覗きたいのだが、
「君変わってるねー」という人は、自分はさも一般的な意見や考えを持っていて、「君」以外の全員のアベレージを出せますよ、と言ったように、これもマウントに聞こえる。うるせえ。
 あとは、自分語りの枕に「私ってちょっと変わってるって言われることがあって〜」から入る話が面白かったことがない。そもそも、変わってる人は変わってることを自覚してないし、他人から言われた「変わってる」を鵜呑みにできなくて悩むものだ。
 
 中学生の時からこうやって文章を書くことが昔から好きだった。僕は「自由に」と言われるのが好きだから、「自由に」文章を書いて、誰かに見てもらうのが嬉しかった。多分相当今より文章が下手くそだったけど、常に自分の気持ちに正直に書いていた。
中学2年の時、スキー教室があった。
僕は当時足を悪くしていて、杖をついて歩いていた。
体育の授業もままならないため、僕はスキー教室への参加をやめようと思っていた。もちろん、両親は納得していて、その旨を書いた家庭用連絡ノート的なものも担任に提出した。
しかし、担任はそれを認めてくれなかった。スキー教室に行って、スキーをすることができないのに、僕は二泊三日(正確には覚えていない)、スキー教室へ行く。担任曰く、「集団行動」だそうだ。社会に出れば集団で動く機会が増える、そのための訓練だと、君一人の意向で「行かない」という判断は許されない。と。いやいや、僕一人というか、両親も納得してこうやって何十行も文章を書いてもらったし、医者からの診断書も送付したし。だけど、僕はスキー教室のバスに乗っていた。
スキー教室は死ぬほどつまらなかった。一日中座っているだけ。同級生が山を登ったり滑ったり、転んだりしている中、僕はずっと椅子に腰掛けていた。
みんな頑張っているんだから「寝るな」「遊ぶな」。それが僕がスキー教室に参加する条件だった。僕は一刻も早く帰りたかった。
地獄の三日間を終え、また次の週から普段通り学校が始まる。
ホームルームの時間にはスキー教室の感想文を書くことになっている。
僕はありったけの枚数、どんな思い出このスキー教室に望んだかを書いた。

数日後、母が担任から呼び出された。
その次の日の昼休み僕が呼び出された。
内容は、作文だった。
僕が書いた内容(はっきりとは覚えていないが)がスキー教室へ連れて行った私への侮辱だと、担任から言われた。侮辱したつもりはないが多分嫌味程度には書いた記憶はある。
「お前さ、文章書いている時周り見えなくなるだろ?」
確かに、そうだ。いやそもそも、文章を書く時に周りなんか見るはずがない。
「お前がこの文章を書いたから、本当はサプライズでこのスキー教室の作文をクラスで文集にしようと思っていたのにできなくなった」
そんなもの多分誰もいらない。みんな作業でこの作文を書いている。
「わかってるか? お前は、変わってる」
そうやって、僕は担任に嘲笑された。
「昨日、お前のお母さんを呼んでこの作文を読んでもらった」
なるほど、だから昨日学校に行ったんだな。
「お前のお母さん泣きながら謝ってたよ」
うちに帰り、母に確認すると、母は怒って「そんなことで泣かない。この先生何言ってるんだろう?ってなった」と。
僕はその時から担任を信用しなくなった。だが、その担任は中学3年間僕の担任だった。
「わかってるか? お前は変わってる」
正直、この言葉に苦しめられた。多感な時期だ。他人と自分を比べ劣等感に苛まれる毎日だった。そんな中変わってる。お前は人とは違う。
僕は廊下は走らなかったし、制服も着崩さないし上履きのかかともふんでない。授業中は静かにしてるし、居眠りもしない。
それでも、僕は変わっていた。変わっていたくて変わっていたんじゃあなくて、変わっていた。それが何よりも嫌で、死にたくなったことすらある。
先生はわかってくれると思っていたが、先生という大人は自分の培ってきたルールブックに載っていない反抗をすると簡単に除外する。列に戻れと。逆に廊下を走る生徒は可愛くて仕方がない。

僕は「変」という言葉が嫌い。それは、担任のあいつに言われることが。
僕はそれから「変」と言われないために、「凡人」と言われないために努力してきた。
それを怠ったら、あの担任を正々堂々恨めない。


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