短編小説「彼の存在する世界」
カメラの前で、俺は静かに目を閉じた。
これから起こる惨劇は、俺には耐え難い光景かもしれない。
あの時の汚れた記憶が脳裏に映る。
『おい、ゴミ! 汚ねぇよ、近寄んな!』
いじめっ子たちは毎日俺を罵った。
ロッカーはゴミだらけ。机上の落書き。上履きに画鋲。
水をかけられ、体操着を隠され、酷いものだった。
教室に俺の居場所はなかった。
いじめに直接関係ない者も身を案じ、俺に関わろうとしなかった。
息をするのもつらい。毎日が生き地獄だった。
俺は何度、世界から消えてしまおうかと思ったか。
そんな俺を救ってくれたのは、たった一人の転校生だった。
『やめろよ。彼が何したっていうんだ?』
彼はそう啖呵を切った。クラス全員の視線が彼に向けられていた。
いじめっ子たちはたじろぎ、捨て台詞を吐きながら教室から出ていった。
その日から、俺の世界は変わり始めた。
相変わらずいじめは続いていた。
でも少しずつ、俺に対してのいじめは減っていた。
彼はたくさん俺に話しかけてくれた。
昼食を共にし、休みの時間も一緒だった。
それが俺にとって、どれだけの救いだったか。
人生で初めて、友達ができた気がしていたんだ。
だけど、その生活は長くは続かなかった。
彼は時々、学校を休み始めた。
そして、ぱったりと学校に来なくなった翌日、衝撃の知らせが届いた。
彼は、自ら命を絶った。
なぜだ…彼はいつも明るく、強かったはずだ…。
真相を知ったのは、数日後のことだった。
『あの子も、いじめられてたんだって...』
『あいつのせいだよ…』
教室でそんな会話を耳にした。
彼は俺を守ってくれた。
しかし俺と関わる彼もまた、いじめの対象になっていた。
そして俺はそんな大事なことを何も気づかないまま、ただ一緒に過ごし、自分だけが救われていた…。
その日から、俺の中で何かが壊れた。
人間はゴミばかり。
救いようもなく汚れていて醜い。
でも、彼だけは違った。
あの純粋な自己犠牲。美しかった。
しかし、そんな彼もまた汚され、儚く散っていった。
こんな腐った世界は終わらせないといけない。
そこで俺は、大勢の人間を集めた。
全員死んでしまえばいいと思っている。
だが彼らに生きる道も用意してしまった。
俺の憎しみに満ちた心の片隅で、かすかな光が燻っている。
彼のような存在が、まだどこかにいるんじゃないかと。
そんな愚かな期待を、捨てきれずにいるのかもしれない。
俺は目を開け、カメラで録画を開始した。
「ああ、目が覚めたかね。――」
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