短編小説「波音運ぶ言葉」
私は、母とよく海に行った。
幼いころ、母は私の手を引いて、波打ち際を一緒に歩いていた。
『大丈夫、怖くないよ』
冷たい水が足に触れるたび、母はいつも優しく笑っていた。
時が過ぎ、大人になった私は、もう海に行くことはほとんどなかった。
忙しい日々の中で、母との思い出も次第に遠く感じるようになっていた。
ある日、母は病気で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
最期の時、私は何もできず、ただ母の手を握ることしかできなかった。
その手はあの頃のような温かさはなく、私は心の中で何か大切なものが消えてしまいそうな不安を感じていた。
母がいなくなってしばらくして、私は再び海に足を運んだ。
母と一緒に何度も訪れた場所だ。
海の香りが懐かしく、波の音が耳に届くと、あの頃の記憶が鮮明に蘇ってきた。
風が頬をなで、海面がきらめく。
私は無意識に波打ち際に立ち、母の手を握っていた幼い自分を思い出した。
『大丈夫、怖くないよ』
あの時の母の言葉が、心の中で優しく響いた。
母はもういない。
でも、その言葉は今も私を支えてくれている。
どんなに孤独で、どんなに悲しみが押し寄せてきても、母はいつもそばにいる気がした。
足元に打ち寄せる波は冷たく、それでも私は一歩踏み出した。
母が教えてくれた勇気は、今も私の中に生き続けている。
風に乗って、ふと母の声が聞こえたような気がした。
『大丈夫。これからも、あなたは大丈夫』
私は涙をこらえきれず、そっと目を閉じた。
でも、その涙は悲しみだけではなかった。
母が与えてくれた愛と希望が、胸の奥に静かに広がっていくのを感じた。
波音がいつまでも続く中、私は再び歩き出した。
母と一緒に見た海は、今日も変わらず、優しく私を包んでいた。