短編小説「たった一日の旅立ち」
私の目が覚めたのは、優しく肩を揺さぶる駅員の手のおかげだった。
『終点ですよ』
その声に我に返り、慌てて周りを見回す。
見知らぬ駅のホームだ。
電車の外にも中にも、他には誰も残っていなかった。
まずい!
もう遅刻は確実だ。
手には、今日の小テストで出題される問題集が握られていた。
急いでスマートフォンを確認すると、母親からの未読メッセージが10件以上溜まっていた。
慌てて電車を飛び出すと、そこで足が止まった。
目の前に広がる光景に、息を呑む。
青い海が地平線まで続き、白い砂浜が弧を描いている。
朝日に照らされた水面が煌めき、波の音が耳に心地よく響く。
私はその景色に、学校のことなんて忘れていた。
気が付くと私の足は駅を飛び出し、砂浜に向かっていた。
私は靴も靴下も脱ぎさって、素足になった。
足裏を無作為に刺激してくる砂の感触が心地よい。
波打ち際まで来ると、恐る恐る水に足をつけた。
小さな波が足首をくすぐる。冷たいっ。
私は制服のまま、砂浜に寝転んだ。
空は青く高く広がり、雲一つない。
リボンを緩め、少し胸元を開けた。
ふと、いつ以来だろうと考える。
こんな風に、ただ空を眺め、波の音を聞いたのは。
今の自分は何に追われているんだろう。
気が付くと、空は茜色に染まっていた。
変わらず波音が一定の間隔で優しく響いている。
テスト、部活動、人間関係、将来。
いまはそんなのどうだっていい。
私は砂まみれの制服を払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
髪は乱れ、制服もはだけている。
突然、体に覚えのない力が込み上がってくる。
「ばかやろーー!!」
自分でもわからない。
急に叫びたくなったんだ。言葉に意味はない。
でも同時に、胸の中にあった何かが吹き飛んでいったような気がした。
夕日が海の向こう、地平線に沈んでいく。
私は海を背に、駅に向かって歩いた。
自分の影が大きく地面に写った。
家に帰ったら、きっと母の叱責を受けるだろう。
それでも、今の私には全て受け止められる気がする。
先生にも―
まぁいい。明日のことは明日考えよう。
電車の座席に座り、車窓に映る自分の顔を見る。
髪は潮風で乱れ、制服は砂まみれ。
靴もどこに無くしたか分からない。
でも、瞳の奥には新たな輝きがあった。
もっと自分の気持ちに正直に生きよう。
明日は面倒が多いことだろう。
でも、私は明日を迎えるのが楽しみになっていた。
電車が動き出す。
窓の外に広がる、まだ日の光を残した夜景を眺めながら、私は静かに微笑んだ。
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